波切城(なきり)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 川面氏
 遺構  : 土塁、石塁跡
 交通  : 近鉄志摩線鵜方駅よりバス
       「大王崎灯台」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           鎌倉時代末期から南北朝時代初期ごろに、川面氏によって築かれたと伝えられる。川面氏は
          紀伊熊野の出で本姓は藤原氏とされるが、詳細は不明である。那智勝浦町の紀勢本線那智駅
          周辺に字川面があり、ここが本貫地と考えられる。
           貞治年間(1362〜66)に、九鬼隆房の次男隆良が川面氏の養子となったとされる。九鬼氏は
          熊野九木浦(尾鷲市)を本貫とし、藤原氏流とも熊野別当家庶流ともいわれるが、やはり詳細は
          不明である。隆良以下、川面氏を称した様子はないため、実際には九鬼氏が川面氏を駆逐して
          城を奪ったものと推測される。
           6代浄隆までの間に、九鬼氏は勢力を志摩国北部にまで伸ばし、田城を築いて居城を移した
          とみられる。浄隆は志摩の七人衆と呼ばれる国人衆と対立し、永禄三年(1560)に田城籠城中
          に没した。このころ、波切城は浄隆の弟嘉隆が守備していた。家督は浄隆の子澄隆が継いだ
          が、2人とも城を支えきれずに朝熊山へ落ち延び、その後織田信長を頼ったとされる。
           永禄十二年(1569)に信長が伊勢北畠氏を降すと、嘉隆は織田氏の後ろ盾を得て志摩国を
          制圧した。田城には澄隆が復帰したため、嘉隆は波切城へ入ったと考えられる。天正十年から
          十二年(1582〜84)の間に澄隆が死去し、嘉隆が家督を継いだ。嘉隆による暗殺ともいわれる。
          同十四年(1586)、嘉隆は新たな居城として鳥羽城の築城を開始し、文禄三年(1594)に完成
          した。波切城は、遅くともこのときに、早ければ嘉隆の家督相続時に廃城となったものと推測さ
          れる。


       <手記>
           波切城は、志摩の景勝地大王埼の南端、大王埼灯台のひとつ西側の突端にあったとされて
          います。地図を一見すると、フック状の大王崎半島の先端が城跡のように思えるので、注意が
          必要です。
           城跡は現在、八幡さん公園となっています。その名の通り八幡社が鎮座しているのですが、
          それ以上に目を惹くのが、ベレー帽姿の絵に描いたような絵描きさんの銅像です。ここからの
          灯台の風景は、絵の題材として有名なのだそうです。
            八幡や城の裏手に、土塁跡と思われる土盛りが1本あります。その塁面には崩れた石片が
          みられ、石塁の跡と思われます。公園自体は2段の平面から成っていますが、城の削平地で
          あるかどうかは断言できません。
           大王崎は、伊勢志摩きっての航行の難所だったそうです。九鬼氏は、おそらくここで駄別銭
          を徴収して海路を掌握し、勢力を拡大させていったものと思われます。

 波切城址石碑。
波切城址俯瞰。 
 主郭のようす。
 中央に絵描きの像。右奥に八幡社。
八幡社裏手の土塁跡。 
中央右手の石片は石塁跡か。 
 波切城址から大王崎灯台を望む。
おまけ:波切漁港の干物場。 
余計な味付けはなく、絶品です。 


BACK