鳥羽城(とば) | |
別称 : 錦城、二色城、鳥羽の浮城、泊殿 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 橘氏か | |
遺構 : 石垣 | |
交通 : JR参宮線・近鉄鳥羽線鳥羽駅徒歩10分 | |
<沿革> 鳥羽は、「泊」または「泊場」の転訛とされる。保元年間(1156〜59)ごろから橘氏の 所領となり、泊には同氏の居館が営まれていたとされる。橘氏は泊殿と呼ばれた。泊 の城は南北朝時代には志摩国守護代の居所であったといわれるが、この守護代が 橘氏を指すものかは不詳である。このほか、泊氏を称する一族が存在したことが確認 されているが、橘氏との関係は分かっていない。 同じ志摩国の出身で、国内紛争に敗れて織田信長を頼っていた九鬼嘉隆は、信長 の伊勢侵攻に際して志摩国の攻略にあたった。嘉隆は、当時の泊城主橘宗忠の娘を 妻としていたが、これを降して所領を奪ったとされる。いつごろかは不明だが、嘉隆の 時代に泊は鳥羽と改められたとみられる。 天正十四年(1586)、嘉隆は鳥羽城の本格的な築城に着手した。文禄三年(1594)、 8年の歳月をかけて城は完成した。三方を海に囲まれ、陸続きの部分には堀を設け、 3つの門以外は陸から切り離された水城であった。また、大手門を海側に開くという、 水軍の城ならではといえる特徴ももっていた。雅称の二色城ないし錦城は、海の魚に 影響を与えないよう海側を黒く、山側を白く塗り篭めていたことによる。 慶長二年(1597)に嘉隆は家督を嫡男の守隆に譲って隠居した。同五年(1600)の 関ヶ原の合戦では、嘉隆が西軍、守隆が東軍につき父子相争うことになった。守隆が 家康に従って上杉討伐に赴いている間隙を突いて、嘉隆は新宮城主堀内氏善ととも に鳥羽城を奪取した。守隆の軍勢が鳥羽城奪還を目指して迫ると、鳥羽城が戦塵に 帰することを憂えた嘉隆は城外で合戦に及んだ。戦いは決着をみなかったが、この間 に関ヶ原本戦での西軍敗北の報が伝えられ、嘉隆は答志島に退去した。守隆は父の 助命を家康に嘆願して認められたが、使者が到着したときには、嘉隆は既に自害して いた。 九鬼家は、守隆の後継者を巡って家督争いを生じ、摂津国三田藩と丹波国綾部藩 に転封・二分された。代わって鳥羽藩主となった内藤忠重は、寛永十年(1633)から 城の改修を行った。このとき、三層の天守や大書院が建てられ、また城の四周が石垣 で固められた。 内藤家は3代で改易となり、一時天領となった。その後、土井利益、大給松平乗邑、 板倉重治、戸田松平光慈と1代ごとに目まぐるしく藩主が交代した。享保十年(1725) に稲垣昭賢が3万石で入封するに及んでようやく藩主家が安定し、以後稲垣家が8代 を経て明治維新を迎えた。 <手記> 鳥羽城は、志摩国一番の大河であろう加茂川の河口に突き出た独立小丘上の城 です。西に5kmほど行けば伊勢神宮があり、志摩国随一の要衝とは思われますが、 いかんせん平地のほとんどないリアス式海岸を代表する土地ですから、残念ながら 町としてはあまり発展の望めない場所です。それでも、城の東側には鳥羽水族館や ミキモト真珠島などの観光地があり、賑わいを見せています。 城跡はこれまで大部分が幼稚園や小学校の敷地でしたが、いずれも近年移転した ということで、公園化の工事が行われているようです。ただ、この公園化は少々城の 原型を顧みずに進められているようで、とくに東側は城として有り得ない様相を呈して しまっています。鳥羽城の遺構は石垣のみとなっているのですが、公園化に伴って 新しい石垣がそこかしこに造営されていて、どれが当時のものかいささか判別がつき づらくなってしまっています。 明らかなのは、旧小学校グラウンドであった本丸と旧幼稚園であった家老屋敷の 石垣です。その他の石垣については、多少眉に唾して見る必要があろうかと思われ ます。 |
|
本丸の石垣。 | |
天守閣跡のようす。 | |
家老屋敷の石垣。 |