山科南殿(やましななんでん)
 別称  : 山科本願寺南殿
 分類  : 平城
 築城者: 蓮如
 遺構  : 土塁
 交通  : 地下鉄東西線東野駅徒歩10分


       <沿革>
           文明十年(1478)に山科本願寺を築いて移った蓮如は、延徳元年(1489)に五男実如に法主
          を譲った。蓮如は山科南殿に隠居したが、南殿がこの時に築かれたものかは不明である。蓮如
          は明応八年(1499)に入寂した。
           天文元年(1532)の天文法華の乱に際し、山科南殿は山科本願寺とともに細川晴元らに率い
          られた法華宗門徒勢によって包囲された。同年八月二十四日の戦闘で、本願寺とともに南殿も
          焼け落ちた。戦後、南殿跡に本願寺重臣栗津元昌(粟津とも)によって南殿光照寺が建立され、
          現在に至っている。


       <手記>
           山科南殿は、山科川の北岸、山科本願寺の北東にあります。山科本願寺の御本寺を北殿と
          呼んだのに対して南殿と呼ばれたとされていますが、御本寺は南殿より北に位置しているため、
          本当なのか少々疑問です。本願寺北方の山科駅周辺には「堂ノ後」や「垣ノ内」、「堂ノ前」など
          城郭に関連しやすい地名が散見されるため、あるいは別に北殿があったのかもしれません。
           現在、光照寺の東から南にかけての区域が史跡指定されています。この区域には、光照寺と
          付属の幼稚園敷地内も含めて土塁や堀跡が残っています。また、発掘調査により石垣遺構も
          発見されています。調査結果などから推定される敷地は、一辺200mほどの方形ないし矩形と
          されています。上の地図にはごく大まかに示しましたが、実際には山科本願寺同様、横矢状の
          折れをもった複雑な縄張りをしていたとみられています。
           山科本願寺に土塁や複雑な縄張りが設けられたのは実如の代以降と考えられているので、
          南殿も蓮如の没後に城砦化されたものと推測されます。

           
 南殿跡石碑と説明板。
土塁。 
 同上。
土塁ないし築山跡。 
 比定地西側にある「蓮如上人御指図の井戸」。


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