山科本願寺(やましな)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 蓮如
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : 地下鉄東西線東野駅徒歩10分


       <沿革>
           文明十年(1478)、蓮如によって浄土真宗の総本山として造営が開始された。蓮如は、寛正六年
          (1465)の「寛正の法難」によって京の大谷本願寺を失い、越前の吉崎御坊へ身を寄せていた。
           当初は現在の「御本寺」と呼ばれる中心区域のみから成り立っており、あくまで寺院および法主
          の居所であった。山科本願寺が城郭化されるのは、次代の実如以降のことと考えられている。蓮如
          は延徳元年(1489)に山科南殿を築いて隠居し、明応八年(1499)に死去した。
           永正四年(1507)、細川澄之と澄元の争いに際して、実如は澄元によって山科本願寺を逐われ、
          近江の堅田御坊へ逃れた。同六年(1509)に、実如は山科本願寺に復帰したが、同寺の城砦化は
          このときの経験によるものとも推測される。
           実如の孫証如のころまでに、最盛期の縄張りが完成したとみられる。御本寺の外側に、内寺内と
          外寺内の2つの外郭が設けられ、それぞれ土塁と堀で囲まれ、郭内には寺内町が形成されていた。
          『二水記』には「荘厳ただ仏国の如しと云々 在家また洛中に異らざる也」とあり、京洛に劣らぬ繁栄
          ぶりを伝えている。
           天文元年(1532)七月、前月に三好元長を自害に追い込むほどに拡大した一向宗の勢力に恐れ
          を抱いた細川晴元が、臣下の茨木長隆を通じて法華宗門徒に檄を飛ばし、一向宗門徒に対し蜂起
          させた(天文法華の乱)。翌月には京都東山や西岡で戦闘となり、これに勝利した法華宗側が京洛
          を確保した。同月二十三日、晴元家臣山村正次率いる3万とも4万ともいわれる法華一揆勢は山科
          本願寺を包囲した。攻城軍には六角定頼の軍勢も加わっていた。翌日早朝から戦闘が始まり、午前
          のうちに、「ミツオチ」と呼ばれる内寺内と外寺内の間の排水溝部分から攻め手が城内に侵攻した。
          一説には、攻め手が偽りの和平交渉を持ちかけ、本願寺側が油断していた隙に攻め込んだともいわ
          れる。
           こうして、短期間の戦闘で山科本願寺は灰燼に帰し、証如は石山本願寺へ逃れた。以後、山科の
          本願寺が復興されることはなく、18世紀に入り山科川対岸の東野の地に山科別院が造営された。


       <手記>
           かつては京洛に匹敵する繁栄を誇った山科本願寺ですが、現在ではごく部分的に土塁や堀跡を
          残すのみです。大別すると、遺構群は山科中央公園と山科西野交差点北東部の2か所にあります。
          前者は内寺内北東隅付近のもので、その外側に外寺内が広がっていました。内寺内にあたる園内
          に対して土塁の外側はやや低くなっていて、堀の痕跡と思われます。
           後者の山科西野交差点北東部は、住宅地のなかに土塁が延びている格好となっています。なか
          には家の敷地に取り込まれている箇所もあります。こちらは御本寺西辺の土塁となりますが、横矢
          状に土塁や堀が折れているようすが観察できます。
           このほか、山科西野交差点の南100mほどのところにも、かつては土塁と堀が残っていましたが、
          現在は宅地化され消滅しています。造成に先だって発掘調査が行われたようで、その結果をもとに
          説明板と石碑が建てられています(上の地図の緑点付近)。ここは、ちょうど攻城軍がなだれこんだ
          「ミツオチ」にあたります。
           さて、山科本願寺は城砦化された寺院であり、前述のとおり御本寺、内寺内、外寺内の3つの郭
          から成っています。その広大な規模や縄張りは、一見すると近世城郭のようにみえます。驚くべき
          は、この広大な縄張りを支える土塁と堀が複雑な屈曲をもっている点です。これが横矢だとすれば、
          山科本願寺は歴史上もっともはやく横矢を取り入れた城郭であるといえると思います。山科本願寺
          が攻め落とされた天文元年が、学習研究社『戦国の堅城』の指摘する通り織田信長の生まれる前
          であるということを鑑みれば、かなり時代を先取りした構造をしているといえます。ただ、本当にこの
          土塁の折れが横矢として設けられたのか、であるならばその技術はどこからもたらされたのかなど、
          疑問も残ります。
           いずれにせよ、城郭の画期的な防衛設備が寺院によって取り入れられたとするならば、城郭史に
          おいてとても重要な意味をもつと思われます。今後のさらなる研究調査の成果に期待したいところ
          です。

           
 山科中央公園の土塁。右の階段を登ると公園内。
 手前側は堀跡か。
 
同上。 
 山科西野交差点北東の土塁と堀跡。
同上。 
 同上。
同上。横矢状の屈曲部のようす。 
 「ミツオチ」跡に建つ説明板と石碑。


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