南条毛利館(みなみじょうもうり)
 別称  : 毛利氏館
 分類  : 平山城
 築城者: 毛利経光
 遺構  : 削平地、堀、虎口か
 交通  : JR信越本線北条駅徒歩25分


       <沿革>
           鎌倉幕府の初代別当として活躍した大江広元の四男季光は、相模国愛甲郡毛利荘に拠って
          毛利氏を称した。宝治元年(1247)の宝治合戦に際して、毛利氏は三浦泰村に与同し、季光と
          3人の息子が戦死した。季光四男の経光だけは、所領の1つであった越後国佐橋荘にいたため
          難を逃れ、戦後に同荘と安芸国吉田荘のみ領有を許された。南条の毛利氏居館はこのときに
          設けられたといわれる。
           経光の孫の時元は、鎌倉時代末から南北朝時代初期ごろに北条城を築いて移ったとされる。
          時元の後は北条氏と安田氏に分かれているため、南条の館はこのときに廃されたと考えられる
          が、詳細は不明である。


       <手記>
           鯖石川沿いの独立丘に鎮座する佐橋神社境内が館跡とされています。神社の西側は箱堀状
          の鞍部となっていて、「ごぼう庵」という寺院のような建物があるのですが、これが旧地形なのか
          建物建造に伴う造成なのかは判断の難しいところです。
           境内は縦に細長く、北端近くに社殿が建ち、南半は墓地となっています。鞍部が当時の地形を
          踏襲しているとすれば、館はこの鞍部か墓地部分にあったのではないかと推察されます。墓地
          の南辺には麓への堀底道が開口しており、南東隅には腰曲輪状の平場が見受けられますが、
          いずれも遺構なのかどうかは不明です。
           南北朝時代初期までに廃されたとするならば、開発領主の居館という性格も鑑みて、遺構が
          判然としないのもむべなるかなといったところでしょう。

           
 北東から館跡を望む。
鞍部から佐橋神社を見上げる。 
 館跡にまつわる説明板。
佐橋神社の社殿と境内。 
 神社南側の墓地。
墓地南東隅の腰曲輪状の平場。 
 城址殉難者碑。
 境内から出土した頭骨を埋葬したもの。
墓地南辺の堀底道開口部。 
 毛利氏供養塔。
 安芸毛利氏は毛利経光の四男時親の後裔です。


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