北条城(きたじょう)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 毛利時元か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、移築門
 交通  : JR信越本線北条駅徒歩15分


       <沿革>
           鎌倉時代末期に、越後毛利氏3代毛利時元が佐橋荘南条から北条へ本拠を移し、城を築いたと
          伝わる。時元の子経高の次代に安田憲朝が分家し、嫡流である治良は北条氏を称したとされる。
          ただし、時元から北条氏・安田氏の2流が成立するまでの系譜には諸説あり定かでない。
           戦国時代後期の当主北条高広は、上杉謙信(長尾景虎)の重臣かつ勇将として知られている。
          高広の先代の安田広春は、高広の養父で北条・安田両氏の家督を兼任していたといわれるが、
          異説も多い。安田氏は傍流出身とされる景元が継いだが、高広とは対立関係となった。
           天文二十三年(1554)、高広は景虎に謀反を起こしたが、これを景元が逸早く報告し、翌年には
          景虎勢に北条城を包囲されて降伏した。永禄六年(1563)には、高広・景広父子が上州厩橋城
          城将を任され、北条城には城代が置かれたものとみられる。
           天正六年(1578)に謙信が没して御館の乱が勃発すると、北条父子は上杉景虎方に与同した。
          対する上杉景勝は景広さえ討ち取れば勝機が得られるとして、荻田長繁に命じて翌七年(1579)
          二月一日に府中八幡宮へ参詣した景広を急襲・殺害した。まもなく北条城も攻め落とされ、高広は
          武田氏を頼った。
           北条氏領は景勝家臣の桐沢具繁に与えられ、北条城将も兼ねたとみられる。慶長三年(1598)
          に上杉家が会津へ転封となるまでには廃城となったと考えられるが、詳しい経緯は不明である。


       <手記>
           北条城は鯖石川と長鳥川に三方を囲まれた丘陵上にあり、越後毛利氏が拠った佐橋荘一帯を
          見渡せます。南東麓の専称寺と普広寺の脇からそれぞれ登城路があるので、どちらかから登って
          もう一方から下りれば、城内をぐるっと一周できます。また、前者には大手門、後者には搦手門と
          伝わる移築門があり、長鳥川を挟んだ諏訪神社は居館跡だそうです。
           専称寺から登ると、まずは出丸とみられる物見櫓跡に至ります。背後には堀切も残っていますが、
          その先は馬つなぎ場と呼ばれる切岸下まで自然地形が続きます。その脇には畝状竪堀群がある
          そうなのですが、遊歩道以外は藪に埋もれていて視認できませんでした。
           その先は、雛壇状の曲輪群や2条の堀切を経て、本丸に到達します。本丸はとても細長く、郭内
          は現地に武者溜りと説明のあるスペースを含め数段に分かれています。本丸の背後にも数条の
          大規模な堀切が続き、その間も曲輪形成がなされています。最後尾の曲輪東側には塚状地形が
          見られますが、用途は定かでありません。
           全体として、山容は険しくないものの、規模や工事量の大きな城といえるでしょう。越後北条氏の
          勢力のほどがうかがえると同時に、長らく対立関係にあった鯖石川対岸の安田城と好対照である
          点が、たいへん興味深いといえます。

           
 南東から北条城跡を望む。
専称寺の伝移築大手門。 
 物見櫓跡。 
物見櫓跡背後の堀切。 
 馬つなぎ場跡。
馬つなぎ場脇には畝状竪堀があるそうですが、 
ご覧の通り藪の中です。 
 曲輪跡。
土塁跡。 
 雛壇状の曲輪群。
堀切と土塁。 
 二の丸跡。
 奥に土塁が見えます。
本丸前方の大空堀跡。 
 本丸跡。
本丸からの眺望。 
 本丸郭内の武者溜りとされるスペース。
本丸最上段のようす。 
 本丸背後の堀切。
本丸背後の曲輪の切岸を見上げる。 
 同じく堀切。
最後尾の曲輪東側にある塚状地形。 
 本丸東尾根の階段状曲輪群。
居館跡とされる諏訪神社。 
 おまけ:北条駅にちょうど止まったJR信越本線。


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