長岡城(なんか) | |
別称 : 山岡氏館、吉富左近館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 山岡氏ないし吉富氏か | |
遺構 : 土塁、堀、曲輪 | |
交通 : 伊賀鉄道上野市駅からバスに乗り、 「守田町」下車徒歩10分 |
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<沿革> 『伊乱記』によると、天正九年(1581)の第二次天正伊賀の乱において、比自山城に 立て籠もった伊賀衆を攻めるため、織田方の筒井順慶が長岡山に布陣したとされる。 籠城方は機先を制さんと、吉富左近らが3手に分かれて長岡山を奇襲した。筒井勢は 大きな被害を出したものの、体勢を立て直したため伊賀衆は撤退した。 まもなく織田勢は総攻撃を図ったが、その前日に城兵はすべて柏原城へ逃亡した。 これにより、長岡山の陣城も廃されたとみられる。 一方、『日本城郭大系』では、『三国地誌』にみえる山岡氏の館跡とする伝承を載せ ている。また、前出の吉富左近の館も守田町にあったとされ、こちらに比定する向きも ある。 <手記> 長岡城跡は名阪国道上野ICの南東、九品寺のひとつ南の尾根にあります。南東隅 の生活道路沿いに「長岡明神」「白王龍神」と彫られた石碑があり、その裏手の土塁 から取り付くことができます。 上述のとおり、『大系』では比自山城攻めの陣城として紹介されていますが、現存の 遺構は典型的な伊賀式城館です。城内は休耕地で、方形館の東半分にコの字型に 土塁や堀が残っています。西辺については、土塁が失われたのかもともとなかったの か不明です。 長岡城とは、長岡山の陣城という意味なのでしょうが、この館跡については、少なく とも天正伊賀の乱以前には山岡氏ないし吉富氏の居館であったものと推察されます。 順慶の陣城についても、「長岡山」に陣取ったとすれば、ここでは麓すぎるうえに手狭 でしょう。最低でも本陣は、背後の山上に置かれたと考えるのが妥当と思われます。 ちなみに、「なんか」とは『大系』にある読みですが、これが正しいのかどうかの裏は とれませんでした。 |
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長岡明神および白王龍神の石碑。 背後の土塁から城内に入れます。 |
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東辺の土塁。 | |
土塁上から空堀を見下ろす。 | |
城内のようす。 |