奈良井城(ならい)
 別称  : 奈良井氏館、奈良井義高館
 分類  : 平山城
 築城者: 奈良井氏
 遺構  : 堀
 交通  : JR中央本線奈良井駅徒歩20分


       <沿革>
           奈良井氏の居館址とされる。奈良井氏については、奈良井治部少輔義高1代の名のみが
          伝わっている。義高は、「義」の通字から木曽氏一族とみられているが、洗馬の土豪三村氏
          の出身とする説もある。奈良井宿大宝寺にある義高の墓の説明板には木曽義在の子で義康
          の弟とあるが、根拠は不明である。いずれにせよ、義康の代に木曽氏に従っていたことはほぼ
          間違いない。
           『岐蘇古今沿革志』によれば、天文十八年(1549)に武田晴信(後の信玄)が木曽に向けて
          兵を出し、義高は義康に救援を仰いだとされる。木曽氏は鳥居峠で武田軍を迎え撃ち、これ
          を撃退したとされる。この戦いは「第一次鳥居峠の戦い」とも呼ばれるが、実際に行われたか
          については疑問が呈されている。少なくとも、前年に塩尻峠の戦いで勝利したばかりで、まだ
          松本平の小笠原氏を駆逐していない段階で、信玄に鳥居峠より先にまで深く侵入する意思が
          あったとは考えにくい。
           天文二十四年(1555)、晴信が本格的に木曽攻略を目指して兵を進めると、義高は武田氏
          に従った。武田軍が、木曽谷の玄関口であり天険の要害である鳥居峠を難なく通過している
          ことから、義高はすんなりと晴信に降伏したものと推測される。
           同年中に木曽氏も晴信に降ったが、武田家中における木曽氏と奈良井氏の関係について
          は定かでない。少なくとも天正十年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされた後は、義高は
          木曽家臣とみなされていたようだ。同年の(第二次)鳥居峠の戦いにおける義高や奈良井城
          の動向については定かでない。
           天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、奈良井氏と同じく鳥居峠以北に本拠を
          置く贄川氏や千村氏が徳川家康に通じ、松本城主小笠原貞慶を木曽に引き入れた。義高も
          両氏の寝返りに与同し、後に義康の子義昌によって殺害されたといわれる。その後の奈良井
          氏や奈良井城については不明である。


       <手記>
           奈良井城は、中山道奈良井宿法然寺背後の段丘上に築かれています。南東は河岸の崖、
          南西はカツ沢の谷によって守られ、残る2辺に空堀が設けられています。法然寺の脇からカツ
          沢を登り、そこから空堀の堀底に出ます。何といってもこの堀が奈良井城最大唯一の見どころ
          といえます。北西辺の堀の中央にごく低い土橋がありますが、これが遺構かどうかは判断でき
          かねます。ただ、ここが館の正面入口であったことは間違いないでしょう。
           郭内は、かつては畑だったようですが、現在は休耕中のようです。ただ、全体的に見通しよく
          草木が刈りこまれ、手入れがなされています。城の北側の農道には、周辺の畑地の持ち主と
          思われる方が2人いらっしゃって、ご挨拶させていただいたのですが、「わざわざ見に来る人が
          いるんなら、もっとちゃんと立て札とか建てないとなぁ」とおっしゃっていました。ですので、私は
          「こんなに見学しやすく手入れしていただいている古い城跡は珍しいですよ」と、思った通りに
          お伝えしました。
           奈良井城は、現状見て回ったところ崖端の単郭の城で、城というより館という方がふさわしい
          といえます。その外側に外郭が巡っていたようには見えません。有事の際には、すぐ隣の天険
          の鳥居峠に駆け登れば良いわけですから、館にそれほど大規模な防御施設は必要なかった
          のかもしれません。

           
 奈良井城址を北東から望む。
北東辺の空堀。 
 北西辺の空堀。
 画面中央付近に大手(?)の土橋。
カツ沢下から奈良井城址を見上げる。 
 おまけ:法然寺門前の奈良井宿のようす。


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