奈良梨館(ならなし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 鈴木氏か
 遺構  : 土塁
 交通  :東武東上線・JR八高線小川町駅または
      JR高崎線・秩父鉄道熊谷駅よりバス。
      「奈良梨」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           『中世城館調査報告書集成』に室町時代の館とあるが、根拠は不明である。
           戦国時代、北条家臣松山衆の鈴木氏が奈良梨に住していた。『新編武蔵国
          風土記稿』によれば、鈴木民部重直が伊豆から移住してきたのがはじまりと
          される。重直は江梨鈴木氏の一族と類推されるが、詳しい系譜は不明である。
          また、寛永年間(1624〜45)に描かれたとみられる『天正庚寅松山合戦図』に
          は、奈良梨村の鈴木民部重直と、その子隼人重親の名が記されている。
           北条氏の滅亡後は奈良梨村の名主となったとされ、現在も鈴木家の子孫が
          現地に居住している。


       <手記>
           上掲の県道脇の竹藪の中に、東西方向の土塁が一本認められます。途中
          に虎口のような切れ込みも見えます。明確な遺構はこれしかなく、堀跡も認め
          られないので、館がこの土塁の南北どちら側にあったのかが問題となります。
           いくつかのサイトでは、川に挟まれた微高地である土塁の北側を館跡として
          います。ですが、土塁の南側には、今も鈴木家の旧家があり、お庭の桑の木
          は町指定文化財となっています。たまたまこのお宅の鈴木氏がいらっしゃった
          ので、お話をうかがうことができたのですが、かつては家の周囲を低い土塁が
          巡っていたそうです。したがって、奈良梨館は現存土塁の南側にあり、館主は
          鈴木重直であったと考えるのが妥当といえます。
           ただ、1つだけ腑に落ちない点もあります。奈良梨は古来鎌倉街道の宿駅と
          して発展した土地ですが、その旧鎌倉街道は県道の西側、台地の上を抜けて
          走っています。街道から館まではやや距離があるうえに、台地上から覗かれて
          しまいます。ただでさえ要害地形とは言い難い場所にあるため、戦国期の領主
          の館とするにはやや選地に疑問が残ります。あるいは、館の南200mほどの所
          にある八和田神社の遺構(奈良梨陣屋)との関連も考慮すべきではなかろうか
          と思われます。

           

奈良梨館土塁。中央に虎口状の切れ込みが見えます。


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