高舘城(たかだて) | |
別称 : 高舘、羽黒城、名取要害 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 藤原秀衡か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR東北本線名取駅よりバス「なとりん号」に 乗り、「那智が丘2丁目」下車徒歩15分 |
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<沿革> 『仙台領古城書立之覚』などによれば、奥州藤原氏3代藤原秀衡によって築かれたと される。文治五年(1189)の奥州合戦では、実際に奥州藤原氏の兵がここで関東方を 迎え撃ったとも伝えられるが確証はない。 『伊達諸城の研究』によれば、観応の擾乱に際して奥州管領吉良貞家が正平六/ 観応二年(1351)十一月に伊具館に退いた時点で「名取要害」を保持していたことが 『白川文書』にみられ、また『石川文書』には、翌正平七/観応三年(1352)三月に 貞家の弟貞経が「羽黒城」に陣取って府中城(多賀城か)と対峙したことが記されて いるとされる。この名取要害および羽黒城は、一般的に高舘城を指すと考えられいる。 同月、貞家・貞経兄弟は南朝方の多賀城を攻め落としたが、奥州管領吉良氏は3代 までに衰退し、高舘城の動向も不明となる。 戦国時代に入り、名取・刈田・柴田・黒川4郡が伊達氏領となると、伊達稙宗の家臣 福田駿河守が高舘城代となった。稙宗自身も大崎・葛西方面への仕置の際に、時々 足を運んだとされる。時代晴宗以降の扱いについては定かでない。 <手記> 高舘城は、現在高舘山と呼ばれている山頂から200mほど東の峰にあります。同じ く高舘山から南方に延びる尾根上には熊野那智神社があり、その歴史は前進となる 羽黒社が建てられた養老三年(719)に遡るとされています。羽黒城の別名も、この 羽黒神社にちなむものと考えられます。 車があれば、那智が丘3丁目の南端から神社への道が伸びていて、駐車場も整備 されています。徒歩の場合でも、那智が丘方面行のバスを利用するのが便利です。 神社に着く手前の峠に高舘城跡の説明板が設置されていて、そこから城跡まで山道 が伸びています。 最初にアクセスできる遺構は背後の尾根を断ち切る大堀切ですが、少し藪を分けて 入るので、全体を把握した後の帰りに見た方がわかり易いのではないかと思います。 とにかく城跡へ来た感動が欲しいという人は、最初に見ておいた方がよいでしょう。 もう少し歩くと、道自体が主城域と南の出丸との間の堀切となります。この出丸は、 秀衡ヶ崎と呼ばれ、藤原秀衡が築いた砦部分と伝えられています。削平されている ようすはあるものの、それ以上の造作はとりたてて認められません。 そこから道は城山の東側へ回り少し下り気味になります。少々不安になりますが、 さらに進むと城跡の標柱が現れ、そこからようやく山頂へ向かう踏み分け道をまっすぐ 登ると、主郭まで到達します。 主城域は矩形の主郭を腰曲輪が取り囲むという、比較的単純な構造をしています。 主郭は正面裏手側に当たる西辺のみ土塁が残っていることから、もともとは熊野那智 神社関連の社殿か堂宇があったものと推測されます。他方で、主郭南東隅には枡形 の虎口が開かれていて、こちらはおそらく伊達氏時代の造作と思われます。 高舘城が熊野那智神社ないしその別当寺を取り立てたものとして、それを行ったの が藤原秀衡であったか吉良貞家であったかは、推測でしか語れません。一般的には 山岳寺社に武士が立て籠もるのは南北朝時代によく見られる事例ですが、熊野那智 神社については歴史も古く、秀衡という可能性もないわけではないでしょう。すなわち 藤原勢の軍兵が実際に拠ったのが、まだ社殿のあった現在の主郭の南方に延びる 秀衡ヶ崎であったとする推測です。 |
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城跡への山道入口に立つ説明板。 | |
主郭への登城路。 | |
主郭のようす。 | |
主郭南東隅の枡形状虎口跡。 | |
主郭西辺の土塁。 | |
主郭下の腰曲輪。 | |
同上。 | |
主郭背後の大堀切。 | |
秀衡ヶ崎の堀切。 | |
秀衡ヶ崎のようす。 | |
おまけ:熊野那智神社からの眺望。 |