三戸城(さんのへ) | |
別称 : 留ヶ崎城、三戸高城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 南部晴政 | |
遺構 : 石垣、曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : いわて銀河鉄道三戸駅からバスに乗り、 「三戸町役場前」下車徒歩15分 |
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<沿革> 天文八年(1539)、三戸南部氏の居城であった聖寿寺館が家臣・赤沼備中の放火により全焼 したため、新たな居城として築かれたと伝わる(『下斗米家譜』)。晴政は三戸城を居城として、 「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われる南部氏の最盛期を築き上げた。 長年男子に恵まれなかった晴政は従弟ないし甥にあたる信直を養嗣子として迎えたが、元亀 元年(1570)に実子・晴継が生まれるとこれを疎むようになった。危険を察知した信直は田子城 へ退いて家督を辞退したとされる。 しかし、天正十年(1582)に晴政が病没すると、同年中に晴継も13歳で早世した。この過程に ついては諸説紛々としており、晴継は父の葬儀の帰り道を暴漢に襲われたとする説や、信直が 暗殺させたとする説、さらには信直が元亀三年(1572)の時点で反乱を起こし、晴政・晴継父子 を同時に殺害していたとする説などがある。 いずれにせよ天正十年までに、南部家の家督は重臣の北信愛や南長義、八戸政栄らの支持 を受けた信直に決まった。しかし、これに対して南部氏の有力支族である九戸政実らは不満を 露わにし、豊臣秀吉の奥州仕置を経た同十九年(1591)に九戸政実の乱を起こした。九戸勢は 精強で、信直の独力では鎮圧することができず、豊臣秀次を総大将とする討伐軍が編成され、 ようやく政実の居城・九戸城を開城に追い込んでいる。 乱後、蒲生氏郷がしばらく九戸城に滞在して近世城郭へと改修し、引き渡しを受けた信直は、 九戸城を福岡城と改名して新たな居城とした。また、乱時の軍監であった浅野長政らの進言に より、慶長三年(1598)からは不来方城(盛岡城)の築城が開始された。この間も三戸城自体は 存続し、三層櫓が上げられ一族重臣の屋敷が設けられていたとみられる。 寛永十年(1634)に盛岡城が完成して、正式に南部藩の居城と定められた後も、三戸城には しばらく城代が置かれていたが、貞享年間(1684〜88)に廃城となり、以後は代官所として使用 された。 <手記> 馬淵川と熊原川の合流点に横たわるゾウリムシ状の山稜が三戸城跡です。ほとんど独立山に 見えますが、もともとは南西隅が尾根続きでそれを「切り剥いだ」ことから、当該箇所には「桐萩」 の地名が残っているそうです。立地的にも城館を築くのにお誂え向きといった山ですが、他方で 頂部はテーブルマウンテン状になっており、全体を城砦化して守りきるにはかなりの兵力が必要 と思われます。従って、晴政の代に南部氏が戦国大名として十分な力を蓄えて、ようやく居城と して整備ができたのでしょう。 城内は城山公園となっていて、一画には三層の模擬天守「三戸城温故館」が建っています。 ですが、本丸は公園の駐車場となっている一帯で、模擬天守があるのはその外側です。両者の 間には本丸大門跡があるのですが、私は当初この点が頭に入っていなかったため、門の向きが 不自然に感じられてしばらく「?」が脳内を巡っていました。 三戸城には二の丸や三の丸はなく、本丸以外は基本的に一族重臣の屋敷地が曲輪を兼ねて 配置されていたようです。このあたりは、戦国大名の居城の一般的な形態を最後まで残していた と評価できるでしょう。 他方でこの城のもう1つの特徴が、前後の端にある綱御門と鍛冶屋門跡です。どちらも石垣造 の枡形門で、中央の技術によって築かれたことは明白です。盛岡城や九戸城ほど大々的には 石垣が用いられてはいないとはいえ、支城にもこのレベルの城門を設けられたというのは、中央 との繋がりの強さを感じさせます。ちなみに綱御門は1989年に復元されており、城内で最も近世 城郭らしい雰囲気を漂わせています。 |
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模擬天守「三戸城温故館」。 | |
正面から。 | |
糠部神社脇の空堀。 | |
本丸大御門跡。 | |
本丸跡。 | |
三層櫓跡。 | |
本丸搦手御門跡。 | |
本丸から三戸駅方面の眺望。 | |
淡路丸跡。 | |
奥瀬与七郎邸跡。 | |
鍛冶屋門跡。 | |
鳩御門跡。 | |
鳩御門下の武者溜り。 | |
復元綱御門。 | |
綱御門下の石垣。 | |
南西端の物見櫓跡。 |