二伝寺砦(にでんじ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 後北条氏か | |
遺構 : 削平地、堀底道 | |
交通 : JR東海道本線他大船駅徒歩25分 | |
<沿革> 玉縄城の支砦と伝えられる。玉縄城の築城は永正九年(1512)とされおり、二伝寺砦はそれ以降 に築かれたことになるが、詳しい経緯は不明である。砦名のもととなっている二伝寺は、玉縄築城 に先立つ同二年(1505)の開山とされる。ただし、寺伝によれば「玉縄城主北条氏時」の発願による とされ、時系列的な矛盾がみられる。また、二伝寺は創建当初別の寺名であったとされるが(名称 は不明)、いつごろ改称したのかは定かでない。 寺の創建にあたっては、福原左衛門忠重なる人物の援助があったと伝えられる。忠重について 詳細は不明であるが、福原家は江戸時代に渡内村の名主を務めていたとされ、藤沢市新林公園 には、旧福原家の長屋門が移築されている。あるいは、福原氏が砦主であった可能性も指摘でき るかと思われる。 廃城時期も不明であるが、遅くとも天正十八年(1590)の北条氏滅亡までのことと推測される。 <手記> 二伝寺背後には2つの丘がありますが、より大きい南側の丘が砦跡とされています。主郭とされる 山頂には、二伝寺西方の村岡荘に入植したと伝わる平良文(村岡五郎)以下3代の塚があります。 とはいえ、二伝寺は室町時代の開基であり、村岡氏との直接の関わりはみられないことから、塚は 寺の創建後に築かれたものと思われます。あるいは、櫓台や土塁、虎口跡などを利用して作られた ものかもしれないと感じました。というのも、3つの塚はばらばらに離れた位置にあり、それぞれ初代 良文と3代忠通の塚は主郭南側の入口両脇に、2代忠光の塚は北側の入口脇に位置しています。 主郭の南には、2〜3段の削平地が続いています。さらに、南西隅の住宅地近くまで下ったところ にも、わりと幅のある帯曲輪が見受けられます。『日本城郭大系』によれば、主郭の1つ西側の丘と も峰続きで、ここに堀切跡があったとのことですが、現在当該箇所には介護施設が建てられており、 遺構は失われたようです。また、主郭の北側の丘との間にも存在したとされる堀切は、『大系』編纂 時にはすでに消滅していたようです。主郭の北麓には塚と村岡氏について記した石碑があります。 この石碑裏の斜面は切岸状の急崖となっていますが、あるいは堀切にともなう遺構かもしれません。 二伝寺裏北側の丘も、頂部が2段ほどに削平されているようにも見受けられます。ただ、中腹以下 は墓地となっているため、城域に含まれていたかは判じがたい状況です。 個人的に、二伝寺砦最大の遺構と思われるのが、二伝寺坂と呼ばれる旧道です。玉縄城との間 の谷戸から二伝寺門前へと登る道で、現在は使われていません。門前の駐車場脇から無理やり 下りていくしかないのですが、藪のなかに堀底の九十九折れ道のようすがしっかりと残っています。 上の地図では緩やかな線でしか示せませんでしたが、実際にはS字結腸カーブの防衛を意識した 山道です。残念ながら途中で完全に藪や倒木に埋もれてしまっており、麓まで下りるのは難しい ようすでした。下りきった先には圓光寺があるのですが、この寺の山号は、ずばり「城護山」です。 この「城」が二伝寺砦を指すのか玉縄城を指すのかは不明ですが、圓光寺境内や二伝寺坂が防御 施設の一端を担っていたことは間違いないものと思われます。 二伝寺坂を上る旧道は、旧鎌倉道とも伝えられます。玉縄城からは直接押さえることのできない 街道を、谷戸を登る坂とともにしっかり扼することが、二伝寺砦の主たる役割だったものと推測され ます。 |
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二伝寺山門越しに砦跡の丘を望む。 | |
主郭のようす。 右手に村岡忠光の塚跡、左手奥に平良文の塚跡がみえます。 良文塚の左側に、忠通の塚跡があります。 |
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主郭南面。土塁跡か。 | |
主郭南側に連なる削平地群。 | |
主郭南麓近くの帯曲輪。 | |
主郭の北の丘の頂部のようす。 | |
二伝寺坂のようす。 | |
同上。 | |
二伝寺坂下にある城護山圓光寺。 |