西川城(にしかわ)
 別称  : 西川陣屋
 分類  : 平山城
 築城者: 西郷清員
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR東海道本線豊橋駅よりバス
       「西郷小学校前」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           月ヶ谷城主西郷正勝の弟清員によって天文年間(1532〜55)に築かれたと伝え
          られるが、確証はない(清員は天文二年(1533)生まれ)。永禄五年(1562)に正勝
          ・元正父子が今川氏に攻められ戦死すると、当時西郷氏の帰属先だった徳川家康
          は清員に家督を継承するよう下知した。しかし、清員は元正の遺児義勝による継承
          を主張して譲らず、自身は後見となった。
           元亀二年(1571)の竹谷の戦いで、義勝は若くして討ち死にした。義勝には遺児
          があり、清員は彼らの家督相続を望んだが、今度は容れられず、家康の命によって
          清員の子家員が西郷氏当主となった。
           天正十八年(1590)、家康の関東移封にともなって、西郷氏も下総国生実5千石
          へ移った。これにより、西川城は廃城となったとされる。
           寛文三年(1663)、吉田藩2代藩主小笠原長矩の末弟長秋が2千石を分知され、
          西川城址に陣屋を構えた。この陣屋は、長秋が元禄十年(1697)に幡豆郡へ移さ
          れるまで存続した。


       <手記>
           西川城は、間川とその支流の安川と郷道川に挟まれた舌状の丘陵先端を利用
          して築かれています。現在は、大福寺裏手の山林および果樹園となっています。
          大福寺境内脇から奥へ入っていくと、虎口と土塁、堀が現れ、いとも簡単に城跡
          へ来たという実感が湧いてきます。
           城内は、果樹園との境付近に櫓台状の方形土塁があったり、先端部との境に
          堀切跡と思われる切通道があるほかは、ほぼ単郭の広々とした空間です。最終
          的には陣屋に使われたとされていますが、江戸時代も中期に差し掛かった寛文期
          に、丘の上に陣屋を設ける必要があったのかはちょっと疑問に感じます。
           とくに南辺の土塁と堀は立派で、少なくともこの部分は戦国時代のままの遺構
          を残していると思われます。

           
 虎口跡。
虎口脇の堀と土塁。 
 同上。
櫓台状土塁。 
 南辺の土塁。
南辺土塁下の空堀。 
 同上。
先端部の堀切跡と思しき切通し道。 
 同じく堀底から。


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