月ヶ谷城(わちがや) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 西郷正員か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸跡 | |
交通 : JR東海道本線豊橋駅よりバス 「嵩山市場」バス停下車徒歩30分 |
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<沿革> 三遠国境沿いの三河国八名郡に勢力をもった西郷氏の城である。西郷氏は九州 の名族である藤原姓菊池氏の後裔を称しているが、途中で源氏から養子を入れて 源姓に転じたともいわれる。三河の西郷氏には、15世紀半ばに三河守護代を務め、 岡崎城を築いたことで知られる西郷稠頼がいるが、八名郡の三河西郷氏との関連 は詳らかでない。 享禄二年(1529)に松平清康が今橋城を奪取すると、西郷正員は清康に従った。 翌三年(1530)には、正員は清康の宇利城攻めに参加している。月ヶ谷城はこの 前後に正員によって築かれたものとみられているが、確証はない。 清康の死後、松平家が弱体化すると、西郷氏は今川氏に帰属した。しかし、永禄 三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、松平元康(徳川家康)が 再び自立すると、西郷正勝は次男清員を人質として家康に転じた。翌四年(1561)、 正勝は月ヶ谷城を嫡男元正に譲り、自身はひと山挟んだ北側の谷間に五本松城を 築いて移った。 翌永禄五年(1562)、月ヶ谷城と五本松城は今川氏の軍勢に攻められ、いずれも 落城し、正勝と元正も討ち死にした。その後、月ヶ谷城の名は史料に登場しない。 ちなみに、西郷氏の家督は元正の遺児義勝が継ぎ、清員が後見を務めた。義勝 の妻は夫の死後、清員の養女として家康の側室となり、2代将軍徳川秀忠と松平 忠吉を産んだ(西郷局)。 <手記> 月ヶ谷城は、三遠国境の本坂峠西方谷筋に突き出た峰に築かれています。麓を 走る本坂道は、往時いくつかあった両国を結ぶ街道の1つであり、月ヶ谷城は交通 の要衝に位置しているといえるでしょう。 城跡へは、西麓の溜池手前付近から登ることができます。登山口が少々分かり にくいですが、小さな標柱を見つければ、あとはそれに従って城跡裏手の尾根筋に とりつくだけです。城は、大きく上下二段の主郭とその下の帯曲輪から成っていて、 規模としては小さいものの、システマティックな構造をしています。主郭上段の北側 背後には虎口が1つ、主郭下段には他の三方に向かって虎口が開かれています。 とくに下段の3虎口については、西と南のものが直角に折れた枡型状に、残る東の 虎口は櫓台状の上段土塁脇に形成されています。 また、南の虎口を下りた先にある帯曲輪にも、喰い違い状になった虎口が外側に 向けて開いており、ここが大手口と思われます。この虎口の脇には、井戸跡のよう な大穴が残っています。 月ヶ谷城が史料に登場するのは1562年までですが、遺構にみられる技巧や城の 位置的重要性から、その後も徳川氏のもとで存続したと考えられています。さらに、 個人的には隣領井伊氏の居城とされる井伊谷城に、規模・構造ともに似ているの ではないかと感じています。 ちなみに、城名の「わちがや」は、一説には城の西方の月ヶ谷山萬福寺の寺紋 が輪違であったことに因るとされています。 |
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月ヶ谷城址遠望。 | |
主郭上段のようす。 | |
主郭上段北側背後の虎口跡。 | |
主郭上段西辺の土塁と、その先に下段の虎口跡を望む。 | |
主郭下段西側の虎口跡。 | |
主郭下段のようす。 | |
主郭下段南側の虎口跡。 | |
主郭下段東側の虎口跡。 | |
虎口脇の土塁及び石積み跡か。 | |
主郭下段東側虎口跡脇の櫓台状上段土塁。 | |
主郭下段下の帯曲輪。 | |
帯曲輪の虎口跡。 | |
帯曲輪の井戸跡のような大穴。 | |
おまけ:主郭上段にあるヤマモモの古木。 |