野田城(のだ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 菅沼定則 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、井戸跡 | |
交通 : JR飯田線野田城駅徒歩30分 | |
<沿革> 永正五年(1508)、菅沼定則によって築城が開始された。定則は田峯菅沼氏菅沼定忠 の三男で、同三年(1506)に設楽郡の有力国人富永久兼の養子となって野田菅沼氏を 興した。富永氏は豊川河畔の平地の野田館を居館としていたが、要害性に乏しいうえに たびたび水害に見舞われていたため、定則は北西600mほどの丘に新城の築城を計画 した。野田城は8年の歳月をかけ、同13年(1516)に完成した。 野田菅沼氏は今川氏に従っていたが、永禄三年(1560)に今川義元が桶狭間の戦い で討ち死にすると、定則の孫定盈は徳川家康に帰属した。翌四年(1561)には、今川軍 によって野田城を攻められ、降伏・開城した。 翌永禄五年(1562)、定盈は野田城を夜襲して城代稲垣氏俊を討ち、旧領を奪回した。 しかし、城は荒廃が激しく、定盈は野田城の東の大野田城を仮の居城とした。 元亀二年(1571)、武田氏が奥三河に侵攻し、野田城と大野田城は攻め落とされた。 武田軍の退去後、定盈は野田城を修築し、再び居城とした。ただし、この戦いについて は、天正三年(1575)の長篠の戦いに際してのものとする説も出されている。 元亀四年(1573)、武田信玄の西上作戦において、野田城は信玄率いる3万の大軍に 包囲された。城兵は500人ほどとされ、前年末の三方ヶ原の戦いで壊滅的敗北を喫した 家康には、後詰を送る余裕がなかった。それにもかかわらず、定盈ら籠城方はよく戦い、 攻めあぐねた信玄は甲斐の金堀衆に地下から坑道を掘らせ、水の手を断つ作戦に出た。 野田城は1か月持ちこたえたがついに降伏し、定盈は捕虜となった。 しかし、信玄の病状が悪化したため、武田軍はまもなく撤退を開始した。その途上で 信玄は世を去り、定盈は徳川方との捕虜交換により解放された。なお、武田軍の突然の 撤退については、野田城内に笛の名手がおり、毎晩奏でられるその笛の音を聞くために 城の前までやってきた信玄を、鉄砲で狙撃したことが原因とする伝説があるが、史料上 の証拠はない。翌元亀五年(1574)、定盈は野田城を奪還し、再び城主に収まった。 天正十八年(1590)、徳川家が関東へ移封となると、定盈もこれに従った。野田城は、 吉田城主として入部した池田輝政によって廃城とされた。 <手記> 野田城は、豊川の河岸段丘が杉川と殿田川という2本の支流によって削られてできた 細長い丘陵を利用して築かれています。かつては、城の東と西は桑淵・龍淵と呼ばれる ほど深い谷で、面積はあまり取れないもののそのぶん要害性に優れた城だったと推測 されます。 現在は、主郭を中心に遺構を見ることができます。とくに本丸の前後の堀は見応えが あり、信玄の攻撃にひと月も耐えたというのも納得の規模といえます。二の丸と接する 本丸北辺には、虎口と土橋、櫓台状の張り出しとそれに伴う堀の折れといった技巧が、 ほぼ完璧な姿で残っています。 こうした本丸の素晴らしさに比べて、二の丸以下はやや残念な状態となっています。 どちらも藪がひどく、とくに二の丸については踏査も困難です。脇を走る道路沿いには 「二の丸跡」「三の丸跡」と標札は掲げられているものの、ほとんど放置されている状況 です。三の丸跡の標札脇から三の丸に進入することができ、それぞれの堀を認めること はできます。 ちなみに、最寄り駅としてその名も野田城という駅があり、その近くには野田城大橋と いうのもあるのですが、いずれも野田城址からはやや離れています。 |
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野田城址碑。 | |
本丸北辺の空堀。 | |
同上。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の櫓台状張り出し部。 | |
本丸の井戸跡。 | |
本丸の土塁。 | |
本丸南辺の空堀。 | |
二の丸跡標札。 | |
二の丸の空堀跡。 | |
三の丸跡標札と進入口。 | |
三の丸の空堀跡。 |