野地城(のじ)
 別称  : 宮崎城
 分類  : 平城
 築城者: 本多信勝
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 天竜浜名湖鉄道都筑駅徒歩10分


       <沿革>
           徳川家臣の佐久城主本多百助信勝によって、天正十一年(1583)に新たな拠点として
          築かれた。それ以前から、旧佐久城主・浜名氏の支砦があったともいわれるが、確証は
          ない。
           天正十八年(1590)に徳川家が関東へ移封となった後の扱いは明らかでないが、江戸
          幕府成立後は、将軍上洛の際の御茶屋御殿として機能したとされる。また、徳川頼宣が
          駿府藩主であった慶長十四年〜元和五年(1609〜19)には、頼宣の傅役の三浦為春が
          浜名郡8千石を領し、野地城を居城としたともいわれる。
           延宝八年(1680)、御茶屋としての役目も終え、野地城は廃城となった。


       <手記>
           浜名湖とその支湖である猪鼻湖に挟まれた大崎半島の付け根に位置する岬の城です。
          ひとつ南の岬には、上述の佐久城跡があります。城跡一帯の道はたいへん細く、自分は
          300mほど東の公園脇に駐車して歩きました。
           現状は大部分が柑橘畑で、江戸時代中期近くまで存続したものの、遺構は残念ながら
          限定的です。上の地図にも南北に細長い池として描かれている、東端の三の丸のものと
          みられる水堀が残り、これが城内で最も見ごたえがあるといえるでしょう。
           果樹園の中を先端まで進むと、本丸跡の広場に至り、一角に城址標柱が建っています。
          広場へは、湖岸を辿る自転車道を歩いても行けます。広場の東側の柑橘畑には、本丸の
          堀跡とみられる段差も見受けられます。また北側の自転車道沿いからは、二の丸の切岸
          のような人口斜面もありますが、遺構かは不明です。城域に比して明瞭な造作が乏しい
          ので、なんでも遺構病が発症しそうで注意が必要です笑
           野地城と佐久城については、さほど離れていないこの距離感で、わざわざ新城を築いて
          移った理由がひとつの論点となっています。実訪したうえでの私見としては、まず単純に
          佐久城では手狭になったことが挙げられるでしょう。それに加えて、遠江国内の安定した
          天正十一年時点では、浜名湖の水運を通じた補給の必要性がなくなり、より広くて本坂道
          に近い野地を取り立てたのではないかと考えています。

           
 東端の水濠跡。
水濠跡の延長とみられるソーラー畑。 
 三の丸の土塁か。
三の丸のようす。 
 本丸跡の説明板。
本丸跡のようす。 
 本丸の堀跡か。
同上。 
 二の丸の切岸か。


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