佐久城(さく) | |
別称 : 浜名城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 浜名清政 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋 | |
交通 : 天竜浜名湖鉄道都筑駅徒歩25分 | |
<沿革> 国人・浜名氏の累代の居城である。浜名氏は源頼政を祖とするとされ、『平家物語』で 有名な「鵺退治」の功績により遠江国に領地を賜り、その地を鵺代と呼んで本拠としたと 伝わる。一方、鵺にとどめを刺した頼政の郎党・猪早太(いのはやた)にはじまる猪鼻氏 の後裔とする説もある。 南北朝時代の浜名(鵺代)次郎清政は、北朝に属して南朝の井伊氏らに所領を逐われ たが、北朝が勢力を盛り返すと暦応二/延元四年(1339)に帰還し、所領を回復・拡大 した。貞和四/正平三年(1348)に至り、清政は佐久城を築いて鵺代から移った。 清政の子・詮政以降は奉公衆として足利将軍に近侍し、歌人としても大いに名声を得た とされる。大永二年(1522)には、連歌師・宗長が佐久城(浜名政明の館)を訪れ、連歌の 会が開かれている(『宗長手記』)。 今川氏の勢力が伸長すると、浜名氏もその幕下に入り、政明の曽孫にあたる頼広は、 今川家重臣・朝比奈泰能の女を妻に迎えた。永禄十一年(1568)、徳川家康が遠江侵攻 を企てると、頼広は家康の勧誘を拒絶して抗戦の構えを見せた。しかし、同年十二月に 徳川勢が迫ると抗せずとみて、わずかな家臣と共に甲斐へ亡命した。残された家臣は、 頼広の叔父の大矢安芸守政頼が中心となって籠城を試みたが、翌永禄十二年(1569) 二月に降伏勧告を受け入れ、開城した。 佐久城は徳川家臣・本多百助信俊に与えられた。信俊によって、現在の縄張りに改修 されたとみられるが、詳しい時期や経緯は明らかでない。元亀三年(1573)の三方ヶ原の 戦い後、武田信玄が浜名湖北東岸の堀江城を攻撃し、刑部で年を越してから宇利峠を 経て三河へ進軍している。途上にある佐久城での戦闘はなかったようで、一説には信俊 の武名を知っていた信玄が城攻めを避けたともいわれるが、巷説の域を出ない。 天正十年(1582)に本能寺の変が起きると、家康は当時の甲斐国主・河尻秀隆に使者 として信俊を送ったが、家康の害意を疑った秀隆は信俊を殺害した。跡を継いだ子・信勝 は、翌十一年(1583)に佐久城の北に野地城を新造して移り、佐久城は廃城となった。 <手記> 佐久城は、浜名湖の支湖である猪鼻湖に突き出た岬の城です。岬周辺自体が猪鼻湖 と浜名湖に挟まれた大崎半島の基部に位置し、高い要害性と湖を通じた交通の利便性 に優れているといえます。 城跡周辺は東急リゾートタウンとして開発されており、主郭一帯が三ヶ日佐久城公園と して開放されています。主郭には土塁や虎口、井戸跡が残り、なによりその前方に付属 する丸馬出しが見どころでしょう。この馬出しも土塁や虎口、主郭との間の土橋や空堀が ほぼ完存し、さらに前方には三日月堀が残り、西側は二重堀となっています。丸馬出し の存在から、最終的な改修は天正十年の武田氏滅亡後とする見解も呈されているよう ですが、傍証がないので推測の域はでないでしょう。 三日月堀の南側にも曲輪が続いていたとみられていますが、リゾートマンションなどの 開発が及んでおり、遺構は判然としません。ちなみに私は夏の盛りに訪れたのですが、 とにかく藪蚊が酷かったです…。下草で歩けないとか、遺構が見にくいといった心配は ありませんが、できれば山城シーズンの訪城が無難と思います。 佐久城については、さほど離れていないひとつ北の岬に野地城を築いて移った理由が ひとつの論点となっています。実訪したうえでの私見としては、まず単純に手狭になった ことが挙げられるでしょう。それに加えて、遠江国内の安定した天正十一年時点では、 浜名湖の水運を通じた補給の必要性がなくなり、より広くて本坂道に近い野地へ移った のではないかと考えています。 |
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登城口の説明板。 | |
丸馬出し前の三日月堀。 | |
丸馬出し西側の二重堀。 | |
丸馬出しの虎口。 | |
馬出し内部のようす。 | |
主郭の空堀。 | |
主郭と馬出しを結ぶ土橋。 | |
主郭虎口。 | |
主郭虎口から馬出しを俯瞰。 | |
主郭の土塁。 | |
主郭のようす。 | |
城址碑。 | |
搦手口。 |