亀山城(かめやま) | |
別称 : 沼城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 中山信正 | |
遺構 : 曲輪、土塁、石積み、堀、虎口 | |
交通 : JR山陽本線上道駅徒歩20分 | |
<沿革> 浦上家臣中山備中守信正(勝政)によって築かれたといわれるが、確証はない。永禄二年(1559)、 浦上宗景は信正の叛心を疑い、新庄山城主で信正の婿である宇喜多直家に殺害を命じた。ある日、 信正から酒宴に誘われた直家は、宴もたけなわになったころを見計らって手勢を招き入れ、主命を 果たした。この功により直家は亀山城を与えられ、新たな居城とした。 以上は軍記物などに記述され、人口に膾炙してきた経緯であるが、近年では謀将・直家の仕業と されてきた暗殺の多くに考証が加えられている。それにより、同時代史料から信正は兄の浦上政宗 と和睦した宗景によって、不穏分子として除かれたとみられている。また、巷説では直家の勢力拡大 に恐れを抱いた信正が、娘を嫁がせて懐柔しようとしたともいわれるが、そもそも直家が中山氏の女 と妻とした事実が一次史料からは確認できない。 一方で、同様に従前は直家による復讐・暗殺とされ、実際には宗景が誅殺したとみられている島村 盛貫(盛實)についてはまったくの濡れ衣と考えられるが、信正に関しては従来説・新説ともに宗景が 主体となって殺害を命じている。したがって、従来説の通りの経緯で直家が信正を殺害して亀山城を 奪取したとしても、新説の内容と齟齬が生じない点には留保が必要と思われる。 亀山城を拠点に浦上家中の最大勢力にのし上がった直家は、天正元年(1573)に石山城(岡山城) へ居城を移し、亀山城は直家の弟春家に預けられた。春家は、もう1人の弟忠家と同一人物ともいわ れる。同十年(1582)に羽柴秀吉が宇喜多勢を先手として備中へ攻め入った際は、往路・復路(中国 大返し)とも、亀山城に止宿したとされる。 春家の最期は定かでなく、春家の子とされる基家は同天正八年の八浜合戦で討ち死にした。忠家 は慶長四年(1599)の宇喜多騒動で隠居し、忠家の子詮家(後の坂崎直盛)は宇喜多家を辞して徳川 家康に仕えたとされる。騒動後の亀山城の扱いについては詳らかでないが、宇喜多家改易後に岡山 藩主となった小早川秀秋によって廃城とされ、櫓が岡山城の大納戸櫓として移築されたと伝わる。 <手記> 東海道新幹線やJR山陽本線が脇をかすめる小高い丘が、亀山城跡です。亀山とは見たままの形状 から名付けられたものと思われ、地名をとって沼城とも呼ばれます。メインの丘の本丸と二の丸、その 西側にある別丘の西の丸と、計3つのピークから成っています。 本丸は宗形神社境内となっていて、南麓から参道の階段が付いています。途中、帯曲輪とみられる 平場があり、西側へ分け入ってみると、おそらく旧登城路とみられる竪堀状地形がありました。本丸は 2段となっていて、伝承が正しければ、社殿の建つ上段には後の岡山城大納戸櫓があったのでしょう。 境内には詳しい縄張り図付きの説明板も設置されています。 本丸東側の二の丸は、全体的に耕地や墓地となっているため、どこまでが遺構なのかは不明です。 一応、3段ほどに削平され、脇手1段下の墓地も帯曲輪とみられます。 西の丸は、麓の浮田小学校が丘の一部を取り込む形となっています。小学校の敷地に入らないよう、 道路に面した北西辺から斜面を直登すると、虎口跡や石積みが見られました。虎口の上は広い園地と なっていて、おそらく曲輪面をいくらか崩してしまっているものと思われます。その東側上が西の丸主郭 で、やや朽ちた標柱が建てられています。 全体として、曲輪をいくつも重ねてはいるものの、堀や虎口などの工夫はほとんど見られません。沼城 沼城の別称のとおり、おそらく当時は周囲を沼地に囲まれており、そもそも丘への寄り付きが容易では なかったのでしょう。 |
|
亀山城跡遠望。 右から二の丸・本丸・西の丸。 |
|
本丸南麓の参道口。 | |
本丸南西帯曲輪の竪堀状地形。 旧登城路か。 |
|
本丸西帯曲輪のようす。 | |
本丸下段から上段を望む。 | |
本丸上段背後の2段の腰曲輪。 | |
本丸上段から下段を望む。 | |
本丸の城址碑。 | |
本丸北東下の腰曲輪。 | |
二の丸を望む。 | |
二の丸1段下の墓地。帯曲輪か。 | |
西の丸北西辺の虎口跡。 | |
虎口脇の石積み。 | |
虎口上の園地。 | |
西の丸主郭のようす。 | |
西の丸の標柱。 |