岡山城(おかやま)
 別称  : 烏城、金烏城、石山城
 分類  : 平山城
 築城者: 上神高直か
 遺構  : 櫓、石垣、濠
 交通  : 岡電東山線城下下車徒歩7分


       <沿革>
           岡山城の前身となる石山城は、南北朝時代の正平年間(1346〜70)に名和氏の庶流とされる
          上神高直によって築かれたと伝わる。ただし、高直以降の上神氏および石山城については不明
          である。
           大永年間(1521〜28)ごろには、金光備前が石山城主であったとされる。金光氏は金川城主
          松田氏に属した国人だが、その出自は定かでない。備前は石山の東隣にあった金光山岡山寺
          を厚く庇護したとされる。ちなみに、岡山県浅口郡には金光町(現・浅口市)があるが、こちらは
          金光教本部が置かれていることにちなむもので、読みも金光氏の「かなみつ」に対し「こんこう」
          である。
           備前には子がなかったため、児島郡本太城主能勢頼吉の弟宗高を養嗣子とした。永禄七年
          (1564)ごろ、宗高は急速に勢力を拡大していた三村家親に屈したが、同九年(1566)に家親が
          宇喜多直家により暗殺されると、翌十年(1567)の明禅寺合戦に際して宇喜多氏に寝返った。
           同戦いで三村氏に対して優位に立った直家は、元亀元年(1570)に石山への居城移転を画策
          し、宗高に謀叛の疑いを着せて切腹を迫った。宗高は弁明や城からの退去を申し出たが許され
          ず、文右衛門・太郎右衛門の2子に所領を与えることを条件に腹を切った。
           直家は天正元年(1573)に亀山城から石山に移り住み、城の拡張や城下町の整備を行った。
          このとき、岡山寺が石山の西側に移されたとされ、あるいは岡山にも出丸など防御設備が建設
          されたとも考えられる。また、石山の北方を走っていた西国街道を、南の城下に付け替えたとも
          いわれる。
           その後、旧主浦上宗景を攻め滅ぼした直家は織田信長に臣従し、直家の子秀家は豊臣秀吉
          の猶子となった。秀吉が天下を統一した天正十八年(1590)に、57万石の居城として城域を拡大
          し、本丸を岡山へ移す工事が始まったとされる(開始時期には諸説あり)。天守もこのときに現在
          の外観と同じ姿で建造されたとみられ、また東方の操山近くを流れていたとされる旭川の本流を
          本丸の直下に付け替えた。「岡山城」としての歴史はここから始まったといえる。なお、岡山への
          本丸は秀吉の意向であったとされるが、当時の岡山は石山よりやや低かった。一説には、秀吉
          があえて不利な岡山を指定したため、反発した宇喜多氏が旭川を本流ごと付け替えて無理やり
          要害の城に仕立てたともいわれるが、確証はない。
           慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで秀家は改易となり、代わって小早川秀秋が岡山藩52万石
          に封じられた。秀秋はわずか2年後に21歳で急死するが、この間も岡山城は外堀が開削される
          など整備工事が続いていた。
           翌慶長八年(1603)、姫路藩主池田輝政の子忠継が別途28万石で岡山藩主となった。忠継の
          母が徳川家康の次女督姫であったが故の厚遇であるが、本人はまだ5歳だったため、異母兄の
          利隆が政務を代行した。利隆は後に姫路藩を継いだが、忠継は元和元年(1615)に17歳で早世
          し、同母弟の洲本藩主池田忠雄が岡山藩を継承した。忠雄の代に、今日に見る岡山城の大枠
          が完成したといわれる。
           寛永九年(1632)に忠雄が没すると、跡を継いだ光仲はわずか3歳だったため、幕府の裁量に
          より鳥取藩主池田光政との所領の入れ替えを命じられた。光政は利隆の子で、やはり幼くして
          家督を継いだため、幼少の姫路から鳥取への移されていた。ちなみに、岡山藩の石高は31万
          5千石で、鳥取藩は32万5千石である。
           光政の代には、無理な河川の付け替えによる洪水被害を抑えるため、百間川が開削された。
          また光政の子綱政は、本丸の対岸に後楽園(江戸時代の呼称は初め「御菜園」、のち「後園」)
          を造園している。光政以降、岡山藩が池田家の宗家とされ、鳥取藩とも転封や加減封なく明治
          維新を迎えた。


       <手記>
           備中松山城などへは小学生のときに行ったことがあるのですが、それからちょうど30年経って
          初めて岡山城を訪れました。偶然にも天守閣がリニューアルされたばかりで、黒々つやつやした
          烏城が青空によく映えていました。しかして内部はというと、どの階にもなぜか歴史家・磯田道史
          さんの顔がアップで目につくようになっていて、上がっていくごとに段々と気持ちが悪くなってきて
          しまいました…。自己顕示欲のカタマリとは承知していましたが、さすがに周囲の人達が制止でき
          なかったものでしょうか^^; なので、施設としての天守閣の記憶はあまりありません。
           本丸西下の表書院跡には、現存の月見櫓や発掘調査で出土した宇喜多氏時代の石垣などが
          あります。とくに発掘石垣は、角がかなりの鋭角になっていて、他ではなかなか見られない特徴
          といえるえしょう。表書院跡から廊下門を北へ出ると、天守閣を横や裏から眺めつつ、橋を渡って
          後楽園に行けます。私は、岡山城天守のデザイン上の魅力は、表から見ると横幅がありどっしり
          しているのに、横から見ると至ってスマート、裏からは旭川に沿った曲線美が眺められるといった
          具合に、見る角度によって趣がガラッと変わるのが一番の魅力と感じています。
           後楽園は、本丸背後の弱点を補う目的もあったとよく人口に膾炙しています。たしかに、北東辺
          には土塁が見られますが、後楽園はじめ大名庭園はたいてい戦世がだいぶ遠くなってから造営
          されているため、安易な推測は留保が必要ではないでしょうか。私は純粋に、築山の奥に聳える
          天守閣や井田・茶畑を景色に取り込んだ優雅な庭園を楽しませていただきました。もっとも、三月
          とて花も紅葉もなかりけりで寂しい時期だったのは否めませんが笑
           いったん城側に戻り、内堀の西側には石山があります。岡山城ができてからは石山曲輪となり、
          現在は駐車場ですが周囲の石垣が良好に残存しています。東麓に説明板があり、それによると
          宇喜多直家時代の石山城は山頂の本丸の前後に曲輪群を配した中世的な縄張りだったと推定
          されているようです。
           また、石山南西の旧内山下小学校南東隅には石山門跡が、そして西辺にはもう1つの現存櫓
          である西丸西手櫓があります。当時は、西手櫓や石山門の外側は水濠だったそうです。
           さて、岡山城、というより石山城の歴史において1つ気になっているのが金光宗高の一件です。
          石山を取り立てたいなら宗光に替地を用意すればいいだけで、宗光も子を託して切腹するくらい
          なら承諾したのではないでしょうか。宗光が死んでから、実際に移るまで3年もかかっているのも、
          無理やり手中に収めたにしては合点がいきません。
           直家は稀代の謀将として知られていますが、実際には直家の仕業ではないものまで、謀略の
          餌食となったように伝わっている例が少なくないとされています。宗高の件についても、実際には
          元亀元年から天正元年の間に病没し、遺児が幼かったのでこれ幸いと接収したといった可能性も
          あるのではないかと、個人的に考えています。

           
 天守閣。
同上。 
 本丸不明門。
表書院跡。 
 月見櫓。
宇喜多氏時代の石垣。 
 表書院の石垣。
内下馬門跡。 
 廊下門外から天守閣を見上げる。
旭川沿いから天守閣を見上げる。 
 後楽園と天守閣。
後楽園北東辺の土塁。 
 後楽園のようす。
石山東麓から月見櫓と天守閣を望む。 
 石山曲輪石垣。
石山門跡。 
 西丸西手櫓。


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