高山城(たかやま)
 別称  : 妻高山城、古高山城
 分類  : 山城
 築城者: 小早川茂平
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口、
 交通  : JR山陽本線本郷駅徒歩25分


       <沿革>
           相模国早川荘を本貫とする桓武平氏良文流土肥氏の庶流・小早川遠平は、源頼朝から安芸国
          沼田荘の地頭に任じられた。遠平は平賀義信の五男・景平を養子とし、高山城はその嫡男・茂平
          によって建永元年(1206)に築かれたとされる。
           茂平の嫡子・雅平の系統は、高山城を居城とする小早川本家の沼田(ぬた)小早川氏となり、
          三男・政景は分流の竹原小早川氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡に際しては、沼田小早川家が
          六波羅探題に付き従ったため建武政権により沼田荘を没収されたが、竹原小早川家の取り成し
          によって返還されている。
           こうした経緯や沼田小早川家中での家督争いなどにより、分家の竹原小早川家の勢力が伸長
          し、両家は肩を並べるほどにまでなった。応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、沼田家は
          東軍・竹原家は西軍と分裂して相争い、翌二年(1468)から3年にわたって高山城は竹原小早川
          弘景の攻撃を受け続けたが、落城には至らなかった。文明九年(1477)、弘景は所領の割譲を
          条件として沼田小早川敬平と和睦した。
           敬平の後、沼田家では扶平・興平・正平と短命の当主が続いた。一方の竹原家でも、弘景の子・
          弘平は両家の融和に努めたものの、その子・興景が天文十年(1541)に23歳で病没した。これを
          受けて、竹原家の家臣団は興景の妻の叔父にあたる毛利元就の三男・徳寿丸を養子に望んだ。
          毛利・小早川両家が従属していた大内義隆の勧めもあり、同十三年(1544)に徳寿丸が竹原家の
          家督を継いで小早川隆景と名乗った。
           同年、高山城は尼子氏に攻撃されたが、まだ幼児であった正平の子・繁平に代わり、家臣団が
          結束してこれを撃退した。しかし、まもなく繁平は病により失明し、家中では隆景による家督継承を
          唱える声が強まった。元就や義隆の強い介入もあり、同十九年(1550)に繁平は高山城を逐われ
          隆景が両小早川家を統一する形で入城した。このとき、田坂全慶を筆頭とする反対派の家臣らは
          誅殺・一掃されている。繁平は出家し、その妹(問田大方)は隆景の正室となった。
           天文二十一年(1552)、隆景は人心一新も兼ねて沼田川対岸の支砦を改修し、新高山城として
          新たな居城に定めた。これにより高山城は廃城となったといわれるが、詳細は不明である。


     <手記>
           沼田川を挟んで睨み合う高山城跡と新高山城跡はどちらも急峻な岩山で、とくに南側から両者
          を仰ぐととみに壮観です。今でこそ河口から10kmほど離れた内陸の山ですが、当時は山麓まで
          船で付けることができたそうで、山城であると同時に水軍城の役割も果たしていたようです。
           高山城は平衡する2つの峰に分かれてエの字型をしているのが大きな特徴で、本丸は北側の
          峰にあります。公共交通機関の場合は南麓から南の峰に登る道があり、車の場合は北峰の北東
          中腹のどん詰まりまで上がると、墓地脇に駐車スペースと説明板があります。北峰の搦手コース
          は登り始めてすぐのところで左右に道が分かれ、西側が搦手道、東側が三尺道というそうです。
          ここが要注意で、私は前者から登って後者から下りようとしたのですが、三尺道はまだ城域を出る
          前から藪に埋もれてしまって、とても行けそうにありませんでした。下からどこまで通じているのか
          は分かりませんが、散々登った挙句にあと一歩で城内に入れなかったら…と思うとゾッとします。
          長年の勘が冴えたのか、幸運なことでした。
           搦手道を登っていくと、途中で北に突き出た小尾根に堂屋敷と呼ばれる曲輪と付け根側の堀切
          があります。新高山城下で入手したパンフレットには「家畜などを飼育していた所かも」と書かれ、
          墓地脇の説明板には「堂(牢)屋敷」とありました。直感的には、後者の方が蓋然性があるように
          思います。その先はまた九十九折れを登りきると、二の丸と北の丸の間の堀切に出ます。
           北の丸は浅い段築で区切られた広めの空間群で、一部に石積みが用いられています。北峰の
          反対側にある扇の丸は別名寺屋敷というそうで、北の丸もどちらかというと元は寺院があったの
          ではないかと推察されます。北の丸と扇の丸の間には、二の丸や中の段、本丸などがあります。
          本丸には虎口状の凹地形が見られ、そこから藪のトンネルを抜けて下りていくと若宮の段という
          手水鉢の残る若宮神社跡の曲輪に出るのですが、それ以上はとても進めません。高山城全体に
          言えるのですが、パンフレットや説明板に道として示されている部分の半分ほどは、冬場でも通れ
          なくなっていました。そのため、南峰へ移動するのに途中直登を余儀なくされた箇所がありました。
           南峰は、東から南の丸・犬の丸・イワオ丸(千畳敷)・権現丸(高の丸)といった曲輪が横列して
          いて、一部には石塁や堀切、竪堀も見られます。権現丸より西にも太鼓丸や西の丸といった曲輪
          があるらしいのですが、やはり道がなく無理はできません。権現丸からは対岸に新高山城が雄々
          しく望めます。逆に南の丸の東には番所と呼ばれる出丸があり、南麓からの山道はここに続いて
          いるようです。
           全体としてかなり規模は大きく、石垣の跡なども散見されることから、個人的には小早川隆景が
          新高山城に移ったのちも、廃城とまではならずに何らかの機能を保持ていたものと考えています。
          そのあたりも整備や発掘が進めば明らかになるのでしょうが、新高山の人気と整いぶりに比べて、
          高山城には手が回らずにいる状況はなんとも残念に思いました。かといって、地元の方々にこっち
          もやって!などとおこがましいことは言えないので、今しばらく転機を待つしかないのでしょう。

 高山城跡(右)と新高山城跡(左)。
搦手ルートの説明板。 
 堂屋敷。
堂屋敷付け根の堀切状地形。 
 北の丸と二の丸の間の堀。
堀から二の丸を望む。 
 北の丸の石積み。
北の丸先端側の腰曲輪。 
 二の丸のようす。
中の段から本丸を望む。 
 本丸のようす。
本丸の虎口状開口部。 
 本丸と扇の丸の間の堀切兼通路。
扇の丸のようす。 
 扇の丸付壇の番所跡。
若宮の段。 
 若宮の段の手水鉢。
2本の峰の間のようす。 
 南峰イワオ丸の腰曲輪。
イワオ丸下の石塁跡。 
 イワオ丸のようす。
イワオ丸から城下を俯瞰。 
 権現丸のようす。
権現丸先端下の腰曲輪。 
 権現丸から新高山城を望む。
犬の丸のようす。 
 犬の丸と南の丸の間の堀切兼通路。
同じく竪堀。 
 南の丸のようす。
番所跡の堀切。 


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