新高山城(にいたかやま) | |
別称 : 雄高山城、長屋城、長江城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 小早川雅平 | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、井戸、虎口、 | |
交通 : JR山陽本線本郷駅徒歩25分 | |
<沿革> 建治二年(1276)、高山城を築いた小早川茂平の三男・雅平によって出城が設けられたのが はじまりといわれる。高山城は雅平以降、沼田小早川家累代の居城となったが、対岸の出城が どのように呼ばれていたのかは不明である。 天文二十年(1551)、分流の竹原小早川氏を継いでいた毛利元就の三男・隆景は、本家筋の 沼田小早川家を統合し、高山城に入った。翌二十一年(1552)、人心一新も兼ねて対岸の砦が 新たな居城として整備され、城名もこのときに新高山城と改められたものとみられる。永禄四年 (1561)には、父・元就や兄・隆元が新高山城を訪れ、茶会や観劇といった饗応が行われたこと が記録に残っている。 天正十五年(1587)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を与えられ、名島城へ居城を移した。文禄 四年(1595)、養子の秀秋に家督を譲ると沼田川河口の三原城を隠居城と定め、大きな改修に 着手した。このとき、新高山城の石垣の大石は悉く三原へ運ばれたといわれ、慶長元年(1596) に普請が完了すると、新高山城は廃城となった。 <手記> 沼田川を挟んで睨み合う高山城跡と新高山城跡はどちらも急峻な岩山で、とくに南側から両者 を仰ぐととみに壮観です。今でこそ河口から10kmほど離れた内陸の山ですが、当時は山麓まで 船で付けることができたそうで、山城であると同時に水軍城の役割も果たしていたようです。 続日本百名城に選ばれたとかで知名度が上がったためか、川沿いに訪城者用駐車場が用意 され、登山道も整備されています。私が訪れたときには、地元の方々が清掃を行っていました。 そのため見た目の険しさに反してたいへん登りやすく、本丸までとりたてて難所はありません笑 三原城へ持ち去られたとはいわれるものの、城内には至るところに石垣の跡が残っています。 また、本丸北側下の釣井の段には石組みの井戸跡が6か所もあります。元就が吉田郡山城の 本丸に居住していたといわれることから、隆景の居館も新高山城の山上にあったのでしょう。 現地の説明板には山上の中の丸から西側は未整備で行けないように書かれていたのですが、 ダメ元で行ってみるとそんなことはなく、石弓の段・西の丸・北の丸北西腰曲輪・畝状竪堀群・ 紫竹丸、シンゾウス郭と巡って、大手道沿いの匡真寺跡までぐるっと1周できました。なかんずく 畝状竪堀群は、中世城郭ファンなら見なきゃ損!といえるほど特徴的です。 また、匡真寺跡の南方には鐘の丸という小ピークの曲輪群があります。ここは『日本城郭大系』 にもあるとおり、隆景入城前から存在していた城砦のようすを留めているように感じました。 |
|
高山城跡(右)と新高山城跡(左)。 | |
高山城跡から新高山城跡を対岸に望む。 | |
大手番所跡最上段の「軽石の段」。 | |
同じく「中の段」。 | |
同「下の段」。 | |
匡真寺跡の石塁。 | |
匡真寺跡の虎口と石塁。 | |
匡真寺跡のようす。 | |
匡真寺跡東側の竪堀。 | |
中の丸(二の丸)。 | |
中の丸の虎口と石塁。 | |
中の丸(北)のようす。 | |
中の丸の堀ないし門跡。 | |
中の丸から釣井の段を見下ろす。 | |
釣井の段の石垣。 | |
釣井の段の石組井戸の1つ。 | |
ライゲンガ丸。 | |
ライゲンガ丸の石垣と釣井の段の井戸群。 | |
本丸の西端を見上げる。 | |
本丸のようす。 | |
本丸西端の虎口状区画。門跡か。 | |
詰の丸のようす。 | |
同上。 | |
詰の丸からの眺望。 | |
詰の丸から高山城跡を対岸に望む。 | |
中の丸と石弓の段の間の堀切兼通路。 | |
石弓の段のようす。 | |
西の丸。 | |
北の丸北西下の腰曲輪と土塁。 | |
畝状竪堀群。 | |
同上。 | |
紫竹丸。 | |
紫竹丸下の腰曲輪。 | |
同じく先端に土塁のある腰曲輪。 | |
シンゾウス郭と背後の切岸。 | |
シンゾウス郭。 | |
一周回って匡真寺跡西側の虎口と石塁。 | |
鐘の丸へ続く尾根筋の削平地。 | |
鐘の丸背後の堀切。 | |
鐘の丸のようす。 | |
鐘の丸前方下の腰曲輪。 | |
同じく土塁をもつ腰曲輪。 |