小川城(おがわ)
 別称  : 小川陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 小川景秋
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 上越新幹線上毛高原駅徒歩5分


       <沿革>
           明応元年(1492)、沼田景久の次男次郎景秋がこの地に入り、小川姓を称した。
          築城時期については詳らかでないが、景秋の子景祐の代までには築かれていた
          ようである。現地説明板によれば、景祐は行状定まらず、沼田本家への狼藉の末
          落命したとされる。景祐の跡は弟の秀泰が継いだ。
           秀泰の子景奥の代の永正十七年(1520)、兵火によって城は焼失したとされ、
          このとき景奥の嫡男景季が若くして焼死したとされる。4年後の大永二年(1524)
          には景奥も小川城を攻められて戦死したとされる。現地説明板では、2度にわたる
          小川城攻めの理由を北条氏の勢力拡大によるものとしているが、このころの同氏
          は相模国を平定し、氏綱が家督を継いだばかりであり、上州北部にまで影響力を
          行使できていたとは考えにくい。
           景奥には他に男子がなく、家督を巡って一族の北能登守と南将監が相争った。
          そのころ、小川家中には赤松則村の後裔を称する捨五郎祐正なる上方の浪人が
          寄寓していた。才を認められていた捨五郎は、妥結案として人々に擁立され、景季
          未亡人を娶って小川氏の家督を継ぎ、可遊斎と称した。可遊斎の家督継承に際し
          ては、上杉謙信の許可を取り付けたともいわれる。だが、可遊斎入嗣が大永年中
          のこととすると、そのころまだ謙信は生まれていない(享禄三年(1530)生まれ)。
           可遊斎の存在が一次史料から確認されるのは、永禄十年(1567)の謙信からの
          書状が初出である。その内容から、当時小川氏が上杉氏に従っていたことが読み
          取れる。謙信死後の天正七年(1579)十月、小川城は武田勝頼の重臣真田昌幸
          に降った。翌八年(1580)には、可遊斎は昌幸家臣海野輝幸らとともに明徳寺城
          を攻め落としている。
           同年、北条氏邦の軍勢が小川城へ攻め寄せた。可遊斎は、敗れて越後へ落ち
          延びてそのまま再び浪人になったとも、北条勢を撃退したにもかかわらず追放され
          たともいわれる。小川城は真田氏が堅持ないし奪還し、北能登守が城主を継いだ。
           天正十七年(1589)、豊臣秀吉の裁定により小川城は北条氏の領有となった。
          富永又七郎が城将として派遣されたが、翌年の小田原の役で北条氏が滅亡する
          と、城は真田家に返還された。しばらくは再び北氏が在城していたようだが、その
          うちに要害としては不要となり、廃されたものと思われる。
           寛永十六年(1639)、沼田藩主真田信政の甥信利は、小川周辺に5千石を分知
          され、小川城三の丸跡に陣屋を建てた(ただし、当時信利はまだ4歳)。明暦二年
          (1656)、信政が本家松代藩を継ぐと、信利は沼田藩主となった。これにより、小川
          陣屋も廃止となった。ちなみに、信利はその後本家松代蕃への対抗心をむき出し
          にし、領内に悪政を布いて改易となっている(詳しくは沼田城の項を参照)。


       <手記>
           小川城は、利根川の2本の支脈に挟まれた細い舌状台地の先端に築かれた城
          です。三方はいずれも深い急崖となっており、清水街道に面した西側のみ地続き
          となっています。
           現在、目の前に上越新幹線上毛高原駅が建設されたせいもあってか、二の丸
          以西は道路や宅地、土地改良によって消滅しています。逆に、本丸はとても良好
          に残っていて、とくに折れをともなった本丸空堀は見応えがあります。折れた先の
          本丸南西隅には、櫓台状の高土塁があります。本丸は公園として整備されており、
          石碑や説明板も設置されています。本丸の先には1段下がってささ郭があります。
          この曲輪は南北の土塁が残っており、とくに北辺のものには石積みもみられます
          が、当時のものかは不明です。
           小川城址は、新幹線の駅からアクセスできるうえに遺構もそれなりに残っており、
          訪れて損はない城跡といえます。ですが、それ以上に気を惹くのは、なんといって
          も、小川可遊斎なる人物の謎っぷりです。
           前述の通り、説明板の記述には、年代的にあまりにも無理があります。景奥が
          大永二年に死んですぐに可遊斎が入嗣したとすれば、当時可遊斎が20歳だった
          としても天正八年の追放時には76歳です。北能登守に至ってはその10年後くらい
          まで現役で生存が確認できます。さらに、大永年間には謙信はまだ生まれてすら
          おらず、その許可を求めることは不可能です。したがって、可遊斎の小川氏継承が
          永禄三年(1560)の謙信の関東進出以降とするならば辻褄が合います。
           時系列の矛盾もさることながら、可遊斎自体も何とも、気になる人物です。いくら
          後継ぎがいないからといって、一族を差し置いて流れ者に家督を譲り渡してしまう
          ものでしょうか。斎藤道三だって、親子2代をかけてようやくのし上がったというのに、
          可遊斎の場合はちょっとすんなりいきすぎているような気がします。
           可遊斎はその没落もあっけない感じですが、おそらくは北条氏に通じて追い出さ
          れたというところではないかと推測されます。ですが、落ち延びた先が越後と明記
          されているあたりに、個人的に引っかかります。かな〜〜り敷衍した邪推ですが、
          可遊斎は謙信の許可を得たのではなくて、謙信によって送り込まれた人物なので
          はないかな、という考えがよぎりました。そう考えると、沼田本家が没落するなかで
          謙信に沼田衆の重鎮として目されていたり、御館の乱終結後にスピード没落して
          いたりする理由も、何となくうなずけるような気がします。

           
 本丸の城址碑。
本丸の土塁。 
 同上。
本丸南西隅の櫓台状土塁。 
 本丸空堀。
同上。 
 二の丸側から空堀越しに本丸を望む。
ささ郭のようす。 
 ささ郭南辺の土塁。
ささ郭北辺の土塁。 
 二の丸周辺現況。
三の丸跡の真田信利陣屋跡。 


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