明徳寺城(みょうとくじ) | |
別称 : 天神山城、天神山砦 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 沼田氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR上越線後閑駅徒歩20分 | |
<沿革> 現地説明板によれば、南北朝時代に沼田氏が会津の蘆名氏の来襲に備えて、 荘田城の北の守りとしてこの地に天神山砦を築いたのがはじまりとされる。 『日本城郭大系』では、天文年間(1532〜55)に後閑氏が築いたとしている。 城下の後閑地域には、康永年間(1342〜45)から貞治年間(1362〜68)の間 ごろに、後閑次郎祐房が居館を営んだとされる。祐房は、沼田氏一族とも、同じ 上野国の碓氷郡にあった新田氏流後閑氏ともいわれるが、その出自は不明で ある。『月夜野村史』によれば、後閑景道が応永年間(1394〜1427)に信州勢 に後閑を逐われ、のちに復帰したとされる。名乗りからみて、景道は沼田氏の 重臣ないし一族と推測される。後閑氏のその後については不明である。 明徳寺城の名は、明徳年間(1390〜94)に城山の麓に明徳寺が開基された ことに因むとされる。 明徳寺城が史料に明確に現れるのは、天正七年(1579)に武田氏重臣真田 昌幸が名胡桃城と小川城を攻略してからのことである。このころ、沼田地域は 北条氏領となっており、利根川を挟んで名胡桃・小川両城と対峙する明徳寺城 は、沼田城と並んで北条v.s.武田の最前線となった。北条氏は明徳寺城を改修 (ないし新築)し、矢部豊後守以下、渡辺左近、西山市之蒸、師大助等を守将 として配した。 翌天正八年(1580)一月二十一日、昌幸は配下の海野輝幸・小川可遊斎ら に700の兵をもたせて夜襲をかけさせた。城方は200の兵で応戦したものの、 敗れて撤退した。昌幸は祢津志摩守・出浦上総介らを置き、城をさらに改修さ せた。同年ないし翌九年(1581)に、昌幸は沼田城代藤田信吉を寝返らせて、 同城を奪取している。 天正十七年(1589)、豊臣秀吉の裁定により、名胡桃城を除く沼田地域は 北条氏領となり、明徳寺城も同氏の手に帰した。しかし、翌十八年(1590)の 小田原の役で北条氏が滅ぶと、沼田地域は真田氏に与えられ、明徳寺城は 役目を失って廃城となった。 <手記> 明徳寺城は、利根川東岸の三峰山端峰の1つに築かれています。付け根 ギリギリのところに上越自動車道が走っており、また高速道路と城山の間に は温泉旅館があります。麓から登る作業道もあるようですが、車で訪れるの であれば、この旅館を目指すのが確実です。説明板や標柱なども、旅館側に 立てられています。 城は、大きくゾウリムシ型の本丸とその周囲をめぐる帯曲輪とから成ってい ます。本丸はとても広い空間で、2段ないし3段に削平されています。もっとも 特筆すべきは、本丸東側の帯曲輪でしょう。この帯曲輪には城外への虎口が 3ヶ所ほど開いており、「儀一の城館旅」管理人儀一さんのご指摘によれば、 虎口を抜けた先には必ず本丸土塁が櫓台状にせり出しており、敵兵の勢いを 挫く構造になっています。また、帯曲輪内にも、土塁の折れを用いた武者隠し 状の空間が形成されていたり、水戸違いのような段差を設けて虎口間を直進 できないようになっていたりと、かなり技巧を凝らしたつくりとなっています。 東側に対して、西側は単純な構造となっています。西側の方が東側よりも 斜面が急であるとはいえ、第一義的には西や北よりも、東や南からの攻撃を 意識していると考えるのが妥当と思われます。そうなると、この縄張りを築いた のは、最終的な所有者でもあり、この城で南東の沼田城と対峙していた真田 昌幸ということになろうかと思われます。 本丸とその周囲の帯曲輪という単純な曲輪配置に比して複雑な虎口構造を もたせ、トーチカ要塞のような戦略構想で築かれた城といえます。日本の中世 城郭史の最後を飾る最終形態のひとつを今に伝える貴重な遺構であると思わ れます。 |
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本丸のようす。 | |
本丸の土塁。 | |
本丸土塁に開いた虎口の1つ。 | |
同上。 | |
本丸土塁の上から。 | |
帯曲輪から見た本丸土塁。 | |
帯曲輪のようす。 | |
同上。 | |
武者隠し状に折れた土塁。 | |
水戸違い状の段差から続く本丸虎口。 | |
帯曲輪の虎口の1つ。 | |
同上。 | |
同上。 | |
峰の付け根側から本丸方面を望む。 二重の土塁を切り拓いて作業道が通されています。 |