大庭城(おおば) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大庭氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 小田急江ノ島線湘南台またはJR藤沢駅よりバス 「城下」バス停下車 |
|
<沿革> 伝承では、大庭景親またはその父景宗(景忠)によって築かれたとされる。ただし、文献や発掘 調査では証拠を得られていない。大庭氏は鎌倉平氏流であるが、その系譜には諸説あり定かで ない。治承四年(1180)に源頼朝が挙兵すると、景親は関東の平氏方の中核を成したが、富士川 の戦いで平維盛が敗れると降伏し、斬首された。景親の兄景義は挙兵時から頼朝に従っていた ため、鎌倉幕府が成立すると有力御家人となったが、子の景兼の代に和田合戦に巻き込まれて 没落した。 戦国時代に入り、扇谷上杉氏家宰太田道灌によって、大庭城が取り立てられたとされる。今に 見る大庭城の遺構は、早くともこのとき以降のものと考えられる。 永正九年(1512)、北条早雲(伊勢宗瑞)が岡崎城を攻め落とし、同年に鎌倉に入ったが、この 間に大庭城も早雲によって落とされたとみられている。このとき、早雲は引地川の泥湿地に囲ま れた大庭城を攻めあぐね、土地の老婆から川の堰を切れば水は干上がることを聞き出したが、 口封じに老婆を殺し、供養のために舟に乗せた地蔵を建てたとする「舟地蔵」伝説が残っている。 その後の大庭城については史料に現れず、詳細は不明である。遅くとも、北条氏が三浦氏や 扇谷上杉氏を滅ぼしたころには、戦略的価値を失っていたものと推測される。 <手記> 大庭城は、引地川と小糸川に挟まれた典型的な三角形の舌状台地に築かれた城です。連郭 式に4つの曲輪が並んでいますが、四の郭の半分以北は住宅地としてがっつり削られています。 住宅地側から主城域側の法面を見ると、「こんなに崩したんか」と驚くほどです。 主城域は大庭城址公園となっていて、とくに三の郭と四の郭はかなり均された芝生の公園と なっていますが、それでもその境の堀跡が段差としてしっかり確認できます。 もっとも大きな見どころの1つが二の郭の堀で、深々としたようすにクランクまでしっかり残って いて見ごたえがあります。当の二の郭の方は、お花の広場となっていますが、三の郭側に土塁 が認められます。 主郭には、発掘調査で検出された掘立柱建物の柱穴が地表復元されています。主郭の先端 には堀切が1条、また西側面には立派な横堀があり、これまた見ごたえのある遺構です。横堀 の下にも帯曲輪があるのが認められます。東側斜面にも曲輪群があるようなのですが、こちら は藪と民家の敷地に阻まれて視認することはできませんでした。 公園の北には、裏門公園や二番構公園、駒寄坂など城郭関連地名を冠した施設などが散見 されるのですが、いずれも城跡らしさを感じさせるものではありませんでした。 大庭城には、前身となる大庭氏や三浦氏の館があったとされていますが、私はそれには懐疑 的な立場です。選地が鎌倉時代の城館のトレンドとは異なっていますし、逆に舌状台地の先端 の連郭式城郭というのは、太田道灌が好みのように思われます。かなり規模は大きな城ですが、 やはり後北条氏にとってはそれほど戦略的価値が高いとは感じられません。北条氏が奪取した 後は、かなり早い段階で廃城になったのではないかと、個人的には考えています。 |
|
舟地蔵付近から大庭城址を望む。 | |
主郭の掘立柱建物跡。 | |
主郭西側面の横堀。 | |
主郭先端先の堀切。 | |
横堀下の帯曲輪。 | |
主郭と二の郭の間の堀。 | |
二の郭のようす。 | |
二の郭堀。 | |
二の郭堀のクランク部。 | |
三の郭堀跡。 | |
同上。 | |
舟地蔵。 |