大林城(おおばやし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 宇野久実
 遺構  : 堀跡、土塁
 交通  : JR東海道本線守山駅よりバス
       「大林」バス停下車


       <沿革>
           応永三十四年(1427)、六角氏家臣宇野久実は、それまでの戦功を賞して大林・三宅・欲賀の3郷を
          与えられ、大林に居城を構えた。大林町に伝わる町の由来によれば、「伊予守親證、親人を経て行家に
          至るまで」宇野氏が大林城主であった。
           同町の覚明寺の縁起によれば、元亀年間(1570〜73)ごろに大林定基なる人物が大林城主かつ同寺
          の大檀那であったが、織田信長により寺は焼かれたとある。当時、大林城の南東1km足らずのところに
          ある金ヶ森城三宅城で一向一揆が発生し、同三年(1572)ごろに鎮圧されている。大林城の動向は
          不明であるが、覚明寺の焼失についてはこの金森一向一揆と関連していると思われる。また、大林定基
          という人物が、系譜上どのような位置にあるのかも詳らかでない。あるいは、宇野氏が大林城主として
          大林姓を併用して称していたとも考えられる。
           さらに同寺の縁起には、天正十一年(1583)に宇野伊予守が仏門に入ったとある。これが正しければ、
          宇野氏自体は存続していたということになるが、大林氏との関係は明らかでない。大林城のその後に
          ついても不明である。


       <手記>
           大林・三宅・欲賀は、いずれも東山道と琵琶湖の湖港志那港を結ぶ志那街道上に並んだ集落であり、
          その事実からだけでも宇野氏の勢力のほどが拝察されます。なかでも、宇野氏が居城を築いたとされる
          大林は、集落全体が水路で方形に囲われています。おそらく大林城は、屋敷や寺・神社を含め集落全体
          を城域とする環濠城郭であったものと思われます。

           


 大林城北西隅付近。堀跡と思われる水路がめぐっている。


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