金ヶ森城(かねがもり) | |
別称 : 金森城、金森御坊 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 川那辺氏 | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR東海道本線守山駅よりバス 「金ヶ森」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 金森は古くから栄えた集落で、平安時代に川那辺氏が中央から送り込まれ、この地に根を 張った。金森城は川那辺氏の館であるが、いつごろ築かれたかは定かでない。『守山城物語』 によれば、寿永元年(1182)に金ヶ森城は木曽義仲に攻められ、焼失したとされる。 14世紀後半ごろに、川那辺氏は浄土真宗に帰依し、金森には道場が開かれた。寛正六年 (1465)に本願寺法主の蓮如が京を追放されると、川那辺道西はこれを迎え入れた。翌七年 (1466)、蓮如らは金森で蜂起し、比叡山の僧兵らと金森合戦に及んだ。この金森合戦が、 史上初の一向一揆であるといわれる。文明元年(1469)、蓮如は堅田へと移ったが、金森は 寺内町として発達していった。 元亀二年(1571)、金ヶ森城の一向門徒は織田信長に対して一揆を起こした。背後には、 信長包囲網形成による本願寺の要請があったものと考えられる。前年にも、一向宗門徒が 守山城へ攻め寄せたことが『信長公記』にみられるが、このときも一向一揆勢は金森を拠点 としていたとみられる。同二年の戦いでは、大坂の石山本願寺から川那辺秀政という人物が 応援に派遣された。 この戦いは、人質を取り交わす和睦の形で終結した。しかし翌元亀三年(1572)には、信長 は近隣の村々に、金森・三宅両城への肩入れをしないとする起請文を強制し、寺内町として の金森は急速に衰えた。金森周辺は佐久間信盛領となったことから、川那辺氏の金ヶ森城 もこのとき廃されたものと推測される。 ちなみに、織田家臣として活躍して、後に飛騨高山藩主となった金森長近は、初名を大畑 可近といった。幼少期に父定近が金森に移住し、長近は若き日を金森で過ごした。織田家に 仕官した際に、自分が育った金森の地名を姓としたといわれる。 <手記> 金森は、東山道と琵琶湖の湖港志那港を結ぶ志那街道の中途に位置し、古来宿場町や 寺内町として栄えた集落でした。とはいえ、残念ながら今日では当時の栄耀をうかがうことは 困難です。 金ヶ森城は、川那辺氏の館城に端を発し、金森御坊が開かれた後は集落全体を包む環濠 城郭に発展していったものと思われます。古地図などから、道場は今の善立寺の西隣あたり にあり、集落の北端を流れる金森川から城の下団地のあたりまでが城域であったと考えられ ています。また、南西500mほどのところに蓮生寺が城塞化したものとみられる三宅城があり、 両者は相互補完的な関係にあったと思われます。 近年まで土塁の痕跡と思しき遺構が残っていたということですが、今では分からなくなって います。古地図とほとんど変わらない経路で集落をめぐる水路が、堀跡として静かに流れて いるのみです。 |
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善立寺。金森御坊の道場があったあたり。 | |
金ヶ森城ならびに金森御坊の説明版。 |