大河原城(おおがわら) | |
別称 : 龍崖城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大河原四郎か | |
遺構 : 堀、土塁、削平地 | |
交通 : 西武池袋線飯能駅よりバス 「大河原」バス停下車徒歩30分 |
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<沿革> 鎌倉時代初期に、大河原四郎が住したと伝えられる。城山の麓に鎮座する軍荼利神社 は、建仁二年(1202)に四郎が創建したものと伝わる。 大河原氏は、武蔵七党に属する丹党ないし児玉党の庶流とされる。ただし、両大河原氏 とも、本貫地は現在の秩父郡東秩父村安戸周辺とされ、飯能とのかかわりは定かでない。 『新編武蔵国風土記稿』においても、飯能の大河原氏がいつやって来たのか不詳であると している。そもそも、大河原四郎なる人物の名は、史料上にも両党の系図にもみられない。 大河原城についても、伝承のほかにその歴史を示す史料は見つかっていない。 <手記> 軍荼利神社背後の龍崖山が、大河原城址です。「龍崖(りゅうがい)」とは、要害や内出 などと同様の、城館跡を示すこの地方独特の呼称のようです。現在、神社の脇から山頂 まで登山道が整備されており、城跡というより、ハイキングコースとして親しまれているよう です。 山頂一帯は、おそらくハイキングコース整備のために樹木が伐採されていて、都心方面 を中心に眺望が開けています。冬場の晴れた日なら、スカイツリーも望めるようです。城跡 としてみた場合、山頂付近で唯一と思われる遺構が、南側の尾根筋を断ち切る堀切です。 その先もしばらく歩いてみましたが、自然地形が続くのみでした。山の南側は工業団地が 建設中で、痛々しいばかりの荒れた整地面が広がります。 この登山道の途中に、地元で「殿屋敷」と呼ばれている一画があります。城主の居館址 と伝えられているということですが、山の中腹にわざわざ地形を無視して綺麗な長方形の 凹地を造成していることから、私はむしろ寺社の跡なのではないかと考えています。 『中世城館調査報告書集成』には、「殿屋敷」として別の地点を示しています。そこは、 龍崖山北西の入間川沿いの地点で、現在は工場や畑となっています。開発領主の居館 があったとしても不思議ではないところですが、ここに館があったとすれば、それは龍崖山 の城とは別個のものと推測されます。というのも、こちらの殿屋敷の背後には、龍崖山とは 谷を1つ挟んだ別の山がせり出しており、詰城をわざわざ龍崖山に設ける理由が乏しいと 感じられます。また、こちらの殿屋敷の対岸には、やはり丹党庶流ともいわれる長田氏館 があります。こちらの殿屋敷に城館があったとすれば、おそらく長田氏と同じころに周辺を 開拓すべく入植した一族のものと推測されます。 他方で、大河原城も基本的に尾根筋を堀切っただけの単純な構造をしており、在地領主 の詰城以上のものではなかったように思われます。ただし、この領主が大河原氏であった のかは、現在のところ何ともいえません。まして、鎌倉時代初期のものとする大河原四郎 築城説は、かなり眉唾物であるといわざるを得ないと感じています。 |
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大河原城遠望。 |
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山頂(主郭)のようす。 |
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山頂からの眺望。 | |
山頂南側背後の堀切。 唯一の明確な城郭遺構です。 |
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通称「殿屋敷」の長方形の整地面遺構。 | |
もう1つの「殿屋敷」現況。 | |
軍荼利神社。 |