大河原氏館(おおがわらし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 大河原氏か
 遺構  : なし
 交通  : 東武東上線/JR八高線小川町駅
      からバスに乗り、「やまなみ前」
      下車すぐ


       <沿革>
           秩父郡大河原郷の開発領主大河原氏の居館跡と伝わる。大河原氏は武蔵七党の
          うち丹党流とも児玉党流ともいわれるが、詳しい出自は明らかでない。館跡とされる
          浄蓮寺は、正和年間(1312〜17)に大河原神治(冶)太郎光興が法華堂を建立した
          ことにはじまると伝わる。
           廃城時期は不明だが、室町時代に入ると大河原氏の名は消え、代わりに上田氏が
          槻川流域の勢力として台頭した。戦国時代後期には浄蓮寺が同氏の菩提寺となり、
          松山城主上田憲定が父朝直・祖父政広・兄長則3代の墓を建てた。


       <手記>
           浄蓮寺には今も上田氏の墓があり、その前には小沢が流れています。この沢は
          境内の東辺に河岸を形成し、槻川へと注いでいたようです。浄蓮寺は、森閑として
          境内や堂宇も大きく、とても立派なお寺です。所有する文化財も多く、上田氏ゆかり
          の寺院として広く認知されているようですが、館跡という認識はどうも薄いようです。
           大河原氏については、今のところ丹党説の方が有力のようです。前出の「神治」
          を「カジ」と読めば、丹党の主流のひとつである加治氏に通じると考えることもできる
          でしょう。
           他方で、加治氏の本貫地にほど近い飯能市大河原にも、大河原氏ゆかりとされる
          大河原城があります。秩父郡の大河原郷は、どちらかといえば児玉党の勢力圏で
          あり、2つの大河原氏が併存していたとしても不思議ではありません。このあたりは、
          よほど新しい証拠が発見されない限り、推測の域を出ないのではないかと思われ
          ます。
           いずれにせよほぼ間違いないとみられるのは、この地に武蔵七党に属する開発
          領主の大河原氏があり、そして鎌倉時代末期から南北朝時代ごろに、なんらかの
          理由で上田氏に取って代わられたということでしょう。

           
 浄蓮寺。
境内東辺の河岸段差。 
 上田朝直墓。
門前のようす。 
 境内から安戸城跡を望む。


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