大草城(おおくさ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 西郷頼嗣か
 遺構  : 不詳
 交通  : JR東海道本線相見駅徒歩25分


       <沿革>
           15世紀後半に岩津城主松平信光が岡崎城主西郷頼嗣を降すと、頼嗣は信光の五男光重を
          婿養子とし、自領の大草に隠退した。大草城はこのときに築かれたとみられているが、確証は
          ない。
           大永四年(1524)、光重の子の昌安は安祥松平家の松平清康に敗れ、岡崎城を明け渡して
          大草城に退いた(大草松平家)。昌安については、頼嗣の実子ともいわれる(西郷信貞)。
           永禄六年(1563)に河一向一揆が発生すると、昌安の子昌久は一揆側について、松平元康
          (徳川家康)に反旗を翻した。しかし、翌年までに一揆が鎮圧されると、昌久は逃亡して大草も
          没収された。後に、昌久の曽孫康安が徳川家に出仕したが、大草城はこのときに廃されたもの
          と思われる。


       <手記>
           国道248号線沿いの正楽寺が、大草城跡とされています。正楽寺には西郷頼嗣の父稠頼の
          墓や、松平光重の肖像があり、少なくともこの付近に西郷氏および大草松平家の館があった
          と考えられます。
           北東側が河岸となっている崖端の城ですが、境内には城館に結びつくようなものは見当たり
          ません。むしろ、門前の切通し道を挟んだ隣の旧家に、土塁の痕跡のような地形が見られまし
          たが、これもまた遺構かどうかは難しいところです。

           
 大草城跡とされる正楽寺。
河岸のようす。 
 正楽寺の隣の民家裏手に見られる
 土塁状の地形。


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