岡崎城(おかざき)
 別称  : 龍城、龍燈山城
 分類  : 平城
 築城者: 西郷稠頼
 遺構  : 曲輪、石垣、堀、井戸
 交通  : 愛知環状鉄道中岡崎駅/名鉄
      名古屋線岡崎公園前駅徒歩15分


       <沿革>
           在地領主西郷稠頼によって享徳元年(1452)に築城が開始され、康正元年(1455)に
          完成したと伝わる。三河西郷氏は、仁木義長が正平六/観応二年(1351)に三河守護
          に就任した際、美濃国の土岐頼忠の子頼音が西郷氏を姓とし、三河守護代となったこと
          にはじまるとされる。その居館は乙川対岸の明大寺町にあったとされ、初期の岡崎城は
          龍頭山という丘に築かれた砦ということから、龍燈山城とも呼ばれた。
           応仁元年(1467)の応仁の乱に際し、岩津城主松平信光が勢力を急拡大し、正確な
          時期は定かでないが稠頼の子頼嗣を降した。信光は五男光重を頼嗣の娘婿とし、光重
          は岡崎松平家を興した。
           大永四年(1524)、安祥松平家の松平清康が岡崎松平家の山中城を攻略した。光重
          の子昌安は岡崎城を清康に明け渡し、大草城に退いた(大草松平家)。昌安は頼嗣の
          実子ともいわれる(西郷信貞)。清康は居城を安祥城から岡崎城に移し、城と城下町を
          整備した。これ以降、岡崎城が松平宗家の居城となる。
           天文四年(1535)、清康は尾張国守山城攻めの際に暗殺された(守山崩れ)。清康の
          叔父の桜井城主松平信定は、宗家簒奪の好機として岡崎城を占拠し、清康の遺児の
          竹千代(広忠)を追放した。しかし、信定は他の重臣や今川氏などの支持を得られず、
          同六年(1537)に岡崎城を退去して広忠に返還した。広忠の嫡男の竹千代(後の徳川
          家康)は、同十一年(1543)にこの城で生まれた。
           近年、岡崎城は織田信秀によって天文十六年(1547)に攻め落とされたとする説が
          提唱され、注目を集めている。ただし、本説を支持する研究者の間でも、戦いの経緯に
          ついては今川方の広忠を織田氏が攻めたとするものから、広忠が今川氏からの自立
          を図ったため、今川義元と織田信秀が結託して三河に攻め入ったとするものまで諸説
          ある。また、これが正しいとしても、広忠はほどなく今川方として岡崎城主に復帰して
          いる。
           天文十八年(1549)に広忠が没すると、岡崎城は今川家に接収され、川手城主山田
          景隆が城代として派遣された。永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討ち
          死にすると、景隆は岡崎城を捨てて撤兵し、松平元康(竹千代)が城主に復帰した。
          この経緯には諸説あり、近年では義元の子氏真が織田氏の三河侵攻への備えとして、
          元康の岡崎帰城を許可したとする説も出されている。
           元亀元年(1570)、改名した徳川家康は浜松へ居城を移し、岡崎城を長男の信康に
          譲った。天正七年(1579)、信康は家康の命により岡崎城から退去させられ、間もなく
          切腹させられた。その後は石川数正や本多重次らが岡崎城代を務めた。
           天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると、豊臣家臣の田中吉政が5万石余
          で岡崎城主となった。吉政によって岡崎城に総濠(田中堀)や石垣などが設けられ、
          近世城郭として整備された。吉政は、文禄五年(1596)に10万石に加増されたうえ、
          慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでの功績により、筑後柳河城32万石へ栄転した。
           慶長六年(1601)、吉政に代わり本多康重が上野国白井城2万石から岡崎5万石へ
          加増・転封となった。岡崎城に三層の天守が建てられたのは、康重の子康紀の代の
          元和三年(1617)とされる。
           正保二年(1645)、4代藩主利長は横須賀藩へ転封となり、代わって吉田藩から
          水野忠善が同石で転入した。その後、水野家7代、松井松平康福1代を経て、明和
          六年(1769)に本多忠粛が入部すると、本多家6代を数えて明治維新を迎えた。忠粛
          は徳川四天王の1人本多忠勝の嫡流で(平八郎家)、康重の系統(彦次郎家)とは
          別家である。本多氏諸家の筆頭ということから、表高は5万石ながら格式は10万石と
          された。


       <手記>
           徳川家康の出生の城として知られる岡崎城ですが、以外にも徳川氏時代の実態に
          ついては必ずしも明らかではありません。本丸北辺の清海堀は西郷稠頼ないし頼嗣
          の法名にちなむとされ、おそらく松平清康入城までの岡崎城は、ほとんど現在の本丸
          程度の小砦だったのでしょう。清海堀の外は、大手門まで断続的に手書きのような
          非直線的なラインの空堀が連なり、家康の関東移封までに、ここまでは拡張されて
          いたものと推測されます。
           本丸の西下には、家康産湯の井戸の残る板谷曲輪があり、その西辺には伊賀川
          が流れています。一見すると、伊賀川と乙川の合流点に突き出た要害のように見え
          ますが、今日の伊賀川は明治末から大正前葉ごろに付け替えられたもので、当時は
          南北に濠が延びていました。またその西側には、江戸初期に沼地を埋めてつくられた
          白山曲輪があり、城の西辺は現在の国道248号線沿いあたりだったようです。
           残念なのは、天守閣周りの松の木が育ちすぎていて、遠くからの写真が撮りにくい
          ことです。私が子供のころに親に買ってもらった城本の写真では1階まで写っている
          のですが、今では下の通り3階がようやく見えるといった感じです。吉祥の松とはいえ
          少し見栄えよく剪定していただけないものかと感じました。
           岡崎城は松平家の菩提寺である大樹寺から真っすぐに望めるようになっています。
          天守最上階には大樹寺方面だけ無料の望遠鏡が設置されているのですが、寺から
          城は容易に分かるものの、この望遠鏡で大樹寺を見つけるのは骨が折れました。

           
 岡崎城復興天守。
清海堀。 
 隠居曲輪。
 誰の隠居先なのかはわかりませんでした。
 隠居曲輪から濠越しに本丸辰巳櫓を望む。 
 龍城堀。
同上。 
 復興東隅櫓を望む。
復興大手門。 
ただし、往時この位置にあったのは七間門。 
当時の大手門は北東200mほどのところにありました。 
 持仏堂曲輪の太鼓門跡。
 持仏堂曲輪の空堀。 
 持仏堂曲輪から天守閣を見上げる。
板谷曲輪の家康産湯の井戸。 
 板谷曲輪の板谷門跡。 
 板谷曲輪から天守閣を望む。 


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