多喜山城(たきやま) | |
別称 : 日向山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 興福寺地頭代か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、石垣跡、櫓台、虎口 | |
交通 : JR草津線手原駅徒歩20分 | |
<沿革> 『栗太郡志』によれば、奈良興福寺の地頭代によって築かれたとされるが、詳細は不明である。 一般には、元亀元年(1570)四月の金ヶ崎の退き口に呼応して甲賀で蜂起した六角義賢(承禎)・ 義治父子に対抗するために、織田信長によって築かれたと考えられている。六角勢は石部付近 まで進出してきたため、多喜山城は前線の拠点となったものと推測される。 同年六月四日の野洲河原の戦いで、六角軍は柴田勝家・佐久間信盛軍に敗れ、甲賀へ撤退 した。同年九月に浅井・朝倉軍が比叡山へ南下して志賀の陣が始まると、六角父子も再び同調 して野洲川下流へ進出した。織田軍との間で幾度か合戦に及んだようだが、多喜山城が戦場と なったかどうかは定かでない。同年十一月に和議が成立し、六角父子は兵を引いたが、まもなく 菩提寺城で再び挙兵した。菩提寺城とは野洲川を挟んで目と鼻の先の多喜山城は、戦闘の有無 は不明だが、臨戦態勢にはあったものと推測される。翌元亀二年(1571)に六角父子は降伏し、 石部城に幽閉された。 六角父子は天正二年(1574)に逃亡したが、もはや信長を脅かすような存在ではなく、多喜山 城は元亀二年時点で役目を終えて廃城となったものと推測される。 <手記> 多喜山城は、野洲川を北に望む東西に細長い半独立丘に築かれています。野洲川との間には 旧東海道が走っています。交通の要地にある特徴的な独立丘ですので、信長以前から地元関連 の城砦が営まれていたとしても不思議ではありませんが、何ともいえません。 山上へは、西麓から登山道が整備されています。登山道とはいってもハイキングコースではなく、 石段が延々と数百段続いているので、傾斜も比高も大したことはないのですが、かなり疲れます。 城跡一帯は、樹木が切り払われ、眺望の開けた憩いの広場となっています。 多喜山城は、長方形の主郭を主体としており、東西の虎口と北東隅の櫓台が特徴といえます。 東西どちらとも折れをもった複雑な虎口となっており、西側の虎口には石垣で固められていた痕跡 が見受けられます。『近江の山城』では、これらの両虎口が宇佐山城のものと似ていることから、 多喜山城が志賀の陣前後に築かれたものであるとみています。ちなみに、同書所収の縄張り図 では、虎口の東と西を取り違えているようです(私もときどきやらかしますが)。 北東隅の櫓台は、直下に東虎口を抱えており、多喜山城が東からの攻撃にとくに警戒している こと、すなわち対六角氏を意識した城であることがうかがえます。櫓台自体も、ここに本当に高櫓 が乗っていたとすれば、六角氏の城館にはみられない施設ですので、織田氏の築城術の特徴を 示しているといえます。 このような主郭の作り込みの細かさに比して、主郭以外には、ほとんどきちんとした曲輪形成が みられないことも特徴の1つであると思われます。西側の緩やかな尾根筋にも曲輪が続いている ようにも見えるのですが、主郭ほど成型されていないのでよく分かりません。 全体的にみれば、ここで戦うというよりも、あくまで後詰が到着するまでの間もちこたえればよい という戦略思想で築かれたものであると思われます。 |
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多喜山城遠望。 | |
主郭のようす。 | |
主郭北辺の土塁。 | |
主郭からの眺望。 右手の山は三上山(近江富士)。 |
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櫓台を望む。 | |
櫓台のようす。 | |
東虎口のようす。 | |
西虎口の石垣跡。 | |
同上。 | |
西虎口のようす。 |