宇佐山城(うさやま)
 別称  : 志賀之城
 分類  : 山城
 築城者: 織田信長(の命を受けた森可成)
 遺構  : 石垣、曲輪跡、土塁、堀、虎口、土橋
 交通  : 京阪電鉄石山坂本線近江神宮前駅または
       JR湖西線西大津駅徒歩25分


       <沿革>
           元亀元年(1570)初めごろ、織田信長の命を受けた森可成によって築かれた。『多聞院
          日記』の同年三月二十日の条には、多聞院英俊が三井寺を参詣しようとしたところ、山科
          から大津へ抜ける逢坂越と小関越の2道が織田軍によって封鎖され、宇佐山城下を通る
          新道が建設中であったことが記されている。他方で、封鎖されている道は追剥が横行して
          いたため、英俊は結局三井寺参詣を諦めて引き返した。この新道は、「大ナル坂」・山中・
          白川を抜けて東山へと至るものであることが同項より明らかとなっている。
           一般的には朝倉・浅井両氏との対立に備えて築かれたものとされるが、信長が朝倉氏
          を攻めるのは同年四月のことである。そのため、直接両氏と対峙するためというよりは、
          将軍足利義昭との対立が深まるなかで、京都と東国の連絡を監視・途絶するのが当初の
          築城の目的であったと推察される。
           しかし、朝倉義景や浅井長政と敵対し、同年九月に志賀の陣が起きると、宇佐山城は
          直接両氏の攻撃に晒されることとなった。朝倉・浅井連合軍約3万が坂本方面へ進出して
          きたが、このとき信長は摂津に出陣しており、宇佐山城には可成や信長の弟信治ら約1千
          ほどの兵しかいなかった。九月十六日、可成らは坂本付近に出撃して連合軍と小規模な
          戦闘に及び、一応の勝利を収めたとされる。
           だが、二十日には比叡山延暦寺の僧兵の増援を得た連合軍と激戦の末、可成・信治や
          蒲生氏郷の叔父にあたる青地茂綱らが討ち死にした。勢いを得た連合軍は同日のうちに
          宇佐山城攻略にかかったが、可成家臣の各務元正や、武藤五郎衛門・肥田彦左衛門ら
          の活躍により、「端城」まで攻め上られ放火されたものの持ち堪えた。その後も、連合軍は
          大津や山科に火を放ちつつ攻城を続けたが、城は二十四日に信長が到着するまで耐え
          抜いた。以後、同年十二月に講和が成立するまで、信長は比叡山に籠った連合軍と対峙
          することとなった。『言継卿記』の十一月九日の条には、山科言継が「志賀織田弾正忠城」
          へ見舞いのために下向したとあり、このとき信長が宇佐山城にいたことがうかがえる。
           同記の和議が成立した十二月十四日の条には、信長が早朝に永原城まで退き、「陣払
          小屋悉放火」したことが記され、宇佐山城このときに一度廃城とされたと考えられている。
          しかし『元亀二年記』によれば、翌二年(1571)七月に明智光秀が「志賀城」にいたことが
          記されている。この時期、光秀は延暦寺を囲い込むため湖西地方の土豪らの懐柔に動い
          ており、宇佐山城はその拠点として再び取り立てられたものと推測されている。同年九月
          には、比叡山焼き討ちが敢行された。
           焼き討ち後、光秀は坂本城を築いた。これにより、宇佐山城は完全に廃城となったもの
          と考えられている。


       <手記>
           宇佐山は比叡山の南に位置し、琵琶湖側からみるとほとんど独立山のように聳えている
          特徴的な山です。宇佐山の名は、源頼義がこの山に宇佐神宮を勧請して、宇佐八幡宮を
          建立したことによります。城へは、この宇佐八幡宮の裏手を少し下りたところから尾根伝い
          に登城路があります。
           登りつめると、本丸と三の丸の間の堀切に出ます。三の丸は出丸とも呼ばれ、志賀の陣
          に登場する「端城」とはこの出丸を指すものと考えられています。出丸は、削平されている
          というほかに主城部に比べて際立った防衛設備がなく、朝倉氏との対立が深まるなかで
          増築された部分とみられています。
           他方、主城部は大きく本丸と二の丸の2段で構成され、部分的に石垣が残っています。
          接続部にあたる本丸南側には桝形虎口の跡があり、発掘調査の結果、櫓門が存在した
          可能性が高いとされています。また、前述の堀切の主城部側には、石垣とテラス状の土塁
          の間にもう1条空堀が設けられています。『戦国の堅城U』ではこれを武者隠しとし、『日本
          城郭大系』では排水溝とみているようです。
           私は、頭上に2段の火砲線があるのに、わざわざその下に武者隠しを設ける必要がある
          のか疑問に感じています。むしろ、敵兵を細長いテラス上に並べて、鴨撃ちにしやすくする
          工夫ではないかと考えています。
           石垣は、本丸北東麓と本丸南東下部に1か所ずつ、二の丸東側に2か所残っているのが
          大きなものです。本丸北東麓以外は、ルートから外れて藪の中へ下りていかないと見学
          できません。『堅城U』では、これらの石垣が総じて城の東側(琵琶湖側)にあることから、
          宇佐山城の石垣は東面にしか築かれなかったとみていますが、実際のところは不明です。
          いずれにせよ、宇佐山城の石垣は安土城築城に先立ついわゆる織豊系城郭のさきがけ
          的なものとして重要視されています。

           
 JR西大津駅から宇佐山城址を望む(左手の山頂)。
 右手奥の山塊は比叡山。
本丸北東麓の石垣。 
 本丸南東下部の石垣。
二の丸東面北側の石垣。 
 二の丸東面南側の石垣。
本丸北麓のテラス状の土塁と堀。 
武者隠し…にはどうも見えないような…。 
 本丸虎口跡。
三の丸のようす。 
 三の丸と主城部の間の堀切と土橋。


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