大村城(おおむら)
 別称  : 玖島城
 分類  : 平山城
 築城者: 大村喜前
 遺構  : 石垣、堀、船蔵(ドック)
 交通  : JR大村線大村駅よりバス
       「大村公園前」バス停下車


       <沿革>
           慶長三年(1598)、大村喜前によって築城が開始された。この年、豊臣秀吉が死去し、朝鮮半島へ
          渡海していた喜前を含む大名諸侯は、一斉に本国へ引き上げていた。情勢が不穏化するなか、喜前
          は朝鮮出兵の経験から、海沿いに堅固な要塞を新築する必要性を感じたものと考えられている。
           城は、同年末ないし翌四年(1599)に一応の完成をみ、喜前は三城城から移った。『日本城郭大系』
          には、大村城普請のさなか、一族重鎮の大村純勝が箕島をより適した地として具申したため、工事は
          一時中断したとする逸話を載せている。しかし、箕島(現在の長崎空港敷地内)は沖合の孤島であり、
          とても大名の居城を築くのに適しているとは言い難く、信憑性のある話とは思えない。
           関ヶ原の戦いののち、大村家は表高2万7千石余を安堵され、大村藩が成立した。喜前の子純頼の
          代の慶長十九年(1614)、大村城は大改修を受けた。このとき、加藤清正の指導を受けて城内の石垣
          が築かれたと伝わるが、清正は同十六年(1611)に没しているため、そのまま受けとることはできない。
          ただし、理由は不明だが清正は大村家に対して影響力をもっていたようで、喜前は清正の勧めにより
          キリスト教を棄て、領内のキリシタンを迫害したといわれる。
           喜前は元和二年(1616)に、純頼は同五年(1619)に相次いで急死した。2人とも、キリスト教弾圧に
          積極的であったため、キリシタンによって毒殺されるにいたったともいわれている。大村藩は、喜前から
          12代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           大村城は、大村湾に突き出た海岸性の半島の上に築かれた城です。現在、本丸は大村神社の境内
          となり、周囲は大村公園となっています。平成四年(1992)に復元された板敷櫓と、その下の長い堀跡
          を利用した菖蒲園のコントラストは、大村を代表する観光風景となっています。
           大村城の石垣はとてもよく整備されており、美しい扇の勾配はたしかに加藤家の指導によって築かれ
          たといわれれば、納得できます。本丸全周と二の丸南辺に連なる石垣はとても表高3万石弱の小藩が
          関ヶ原の戦い前に突貫で築けるようなものではなく、現在残る遺構の大部分が慶長十九年以降のもの
          であると推測されます。1つだけ、本丸西側に巨大な空堀があり、おそらくこれが喜前時代の遺構だろう
          と思われます。この空堀は、板敷櫓のすぐ裏手まで延びており、石垣の背後にすぐ空堀という、城跡を
          見慣れている者には少々変わった構造になっています。
           本丸は、仕切り石垣によって東西2段に分けられており、おそらく西側が公的な、東側が藩主の私的
          な空間として用いられていたものと思われます。東本丸の一画に、明治期に建てられたという御居間跡
          の石碑があります。この石碑の台座は、どうやら仕切り石垣を転用してあつらえられたもののようです。
          大村城には天守は築かれなかったため、立派な石垣が城の威を示すよすがといえます。
           大村城特有の見どころとして、西麓にある御船蔵が挙げられます。これは4代藩主純長の時代に設け
          られたもので、藩の御用船のためのドックにあたります。もともとは板敷櫓下にあったそうで、現在そこ
          には新蔵波戸があります。一度に3隻を収容できたこのドックは、ほとんど完全な姿で残っており、全国
          に水城は少なくなかりけりといえども、とりわけ貴重な遺構であるといえるでしょう。
           このほか、城内には自然に関する見どころが2つあります。1つはオオムラザクラとクシマザクラという
          八重桜の地方種です。訪れた時にはまだ開花には早かったのですが、多いもので花弁が200枚以上
          に上るということです。もう1つは、県天然記念物に指定されている「玖島崎樹叢」です。これは、早い話
          が樹種多様な自然林で、南辺を除く本丸の周囲に広がっています。なぜ人の手が入らなかったのかは
          詳らかではありませんが、大村藩時代にはすでに林に埋もれて城が見えないという状況にあったそう
          です。
           最後に余談ですが、大手から二の丸へ桝形を登る途中に、「元祖 梅ヶ枝焼」の看板を掲げたお店が
          あります。どこからどう見ても太宰府の梅ヶ枝餅なのですが(笑)、この店の注目すべきはこれではあり
          ません。ここで扱われている大村寿司は、戦国時代に有馬氏に逐われた大村氏が、後に復帰できた際
          に領民がこれを祝おうとし、道具がなかったので枡にありったけの具材を詰めた押しずしを作って供した
          のがはじまりとされる郷土料理です。ここでなくても食べられるようですが、訪城次いでにいただくのに
          ちょうど良いので立ち寄りました。

           
 堀跡の菖蒲園越しに板敷櫓を望む。
板敷櫓近望。 
 大手口のようす。
大手桝形。 
 城内空堀越しに板敷櫓を望む。
本丸虎口門桝形。 
 本丸台所口門桝形。
本丸搦手門跡。 
 西本丸の大村神社。
 右手の木がオオムラザクラ。
 本丸を東西に分ける仕切り石垣。 
 御居間跡石碑。
大手前の長堀跡。奥に板敷櫓が見えます。 
 本丸北麓のいろは段。
 奥の石垣はいろは坂詰櫓門跡。
本丸の西側の空堀。 
一帯は玖島崎樹叢です。 
 同上。
御船蔵跡。 
 新蔵波戸。


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