三城城(さんじょう)
 別称  : 三城
 分類  : 平山城
 築城者: 大村純忠
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : JR大村線大村駅徒歩10分


       <沿革>
           単に三城と呼ばれることも多いが、正しくは三城城である。三城城は、永禄七年(1564)に
          大村純忠によって築かれた。純忠は島原半島に勢力をもつ有馬晴純の二男で、大村純前の
          養子に送り込まれていた。純前には実子がいたが、晴純の要求に屈して後藤純明の養子と
          なり、後藤貴明と名乗った。貴明は、自身が大村氏を継げなかったことに恨みを抱き、同三年
          (1560)に松浦隆信の子惟明を養子として、大村・有馬ラインに対抗しようとした。
           永禄六年(1563)に純忠がキリスト教に入信すると、貴明はこれに反対する大村家臣を糾合
          しようと図った。三城城はこのような状況下で築かれたもので、純忠は差し迫った危機に対応
          するための実戦的な城を必要としていた。貴明は翌七年(1564)からことあるごとに大村領を
          攻撃したが、大村氏を疲弊させるにとどまり、決定的な勝利を得ることはできなかった。
           元亀三年(1572)、貴明は熱心な仏教徒であったためやはり純忠を嫌っていた諫早の西郷
          純堯や惟明の実兄松浦鎮信を誘い、1500人の軍勢で三城城を急襲した。このとき、三城城
          には純忠以下武将が7人と、従者や婦女子、人質などが80人弱ほどしかいなかった。籠城方
          は、非戦闘員に城内を駆け回らせて相当数の兵力がいるように見せかけ、大手と搦手にそれ
          ぞれ十数名を配置して抵抗し、その日はなんとか持ち堪えた。すると、危急を聞きつけた家臣
          が兵を率いてようやく集まり出し、包囲軍を果敢に攻撃したため、貴明らは攻城を諦めて撤退
          した。この戦いは、三城の「七騎籠り」と呼ばれている。
           その後、貴明や鎮信は急成長した龍造寺隆信に従属し、天正六年(1578)から同九年(15
          81)の間に、純忠も段階的に龍造寺氏に従属した。同十二年(1584)の沖田畷の戦いで隆信
          が戦死すると、大村氏は独立した地位を回復した。
           慶長四年(1599)、純忠の子の喜前は、大村湾に臨む丘陵上に玖島城(大村城)を築いて
          居城とし、三城城は廃城となった。

          
       <手記>
           三城城は、多良山地から大村湾へ延びる山裾の先端に築かれた城です。周辺には、似た
          ような火山特有の細長い裾野が連なっていて、三城城のある台地がとくに要害性に優れて
          いるというわけではありません。ここが敢えて城地に選ばれた理由を拝察するならば、それ
          以前の居館であった大村館から近く、直接の脅威である後藤氏が攻めて来るであろう北側
          に、比較的大きな大上戸川が流れているという点でしょうか。
           城は大きく3つの曲輪と、付属の腰曲輪群からなっています。三城の呼び名はここから付け
          られたともいわれますが、城名が先か地名が先かははっきりしていないようです。台地先端
          にあたる南西の曲輪が本丸とされ、ここには長崎県忠霊塔があります。忠霊塔とそれに伴う
          公園化によって、本丸の内部はきれいに均されてしまっています。拝殿脇の茂みのなかに、
          ひっそりと傾いた「三城々址」の石碑がありました。
           本丸の東と南の堀はよく残っていて、最大の見どころとなっています。本丸東側が搦手、
          北西が大手とされています。本丸南の空堀の南側には帯曲輪があったとされ、ここからは
          火縄銃の弾丸が発掘されているそうです。
           本丸東側の二曲輪とされている曲輪は、半分ほどが畑地に、残りが荒地となっています。
          おそらく以前は曲輪全体が耕作されていたのでしょう。したがって、この曲輪の遺構は判別
          が難しいのですが、東端の堀跡と思しき箇所が、舗装された堀底道となっています。
           二曲輪から空堀を挟んだ北側にある三曲輪は、全体的に竹藪と化しているのですが、その
          東端には三城神社という小さな社があり、神社の脇は虎口状になっています。三曲輪と本丸
          の間は、台地の傾斜のすぐ裏に空堀があり、台地の上部が土橋のようになっています。この
          構造は、玖島城の板敷櫓周辺にも見られ、あるいは大村氏特有の築城術のようにも思われ
          ます。
           さて、三城城最大のエピソードは上述の「七騎籠り」ですが、三曲輪まで含めた城域を守る
          とすると、どう考えても80人程度では広すぎて防ぎきれません。極端に単純に考えて、3つの
          曲輪の総外周は7〜800mほどになるので、非戦闘員を含めても1人当たり10mをカバーしな
          ければならない計算になります(もちろん、城を守るとはそう単純な話ではありませんが)。
          ですので、個人的な直感としては、元亀三年時点の三城城は本丸と付属の腰曲輪程度の
          もので、二曲輪や三曲輪はその後に増築されたのではないかと考えています。少なくとも、
          関ヶ原の戦いの前年までは大村氏の居城だったのですから、秀吉時代に拡げられたものだ
          としても、なんら違和感はないものと思われます。

           
 本丸現況。
三城々址碑。 
 本丸南辺の空堀。
本丸の切岸。 
 本丸東側の空堀。
同上。 
 二曲輪のようす。
二曲輪東側の堀跡と思しき堀底道。 
 三曲輪の空堀と切岸。
 左手上方に見えるのは三城神社。


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