大西城(おおにし) | |
別称 : 池田城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小笠原長経 | |
遺構 : 石垣 | |
交通 : JR土讃線阿波池田駅徒歩10分 | |
<沿革> 承久三年(1221)の承久の乱の戦功により小笠原長清が阿波守護に任じられると、その子 長経が守護代として現地に赴任し、大西城を築いたとされる。貞応二年(1223)には、同乱の 首謀者である後鳥羽上皇の皇子土御門上皇が、連座を申し出て土佐へ配流となり、道中で 大西城に休息した。上皇はそのまま吉野川を板野郡へと下り、幕府の厚意によってより都に 近い阿波国内での閉居となった。 大西城は阿波の西端に近い山間部に位置しており、守護所を置くには不自然に見えるが、 『日本城郭大系』では、長経が四国全土の守護たらんと志したためと解釈している。他方で、 長経は入国してまもなく、名西郡にある前守護佐々木氏の鳥坂城を攻めている。そのため、 着任当初は阿波東部に佐々木氏の影響力がまだ強く残っていたため、西部から入らざるを 得なかった可能性も考えられるが、推論の域は出ない。 長房は居城を岩倉城に移したため、大西城はその支城となったとみられる。一方、近藤氏 の後裔とも小笠原氏一族ともいわれる大西氏が興り、一大勢力を築いているが、その居城は 白地城とされ、大西城との関係は詳らかでない。 天正十三年(1585)に豊臣秀吉が四国を平定すると、阿波国は蜂須賀家政に与えられた。 家政は、地域支配のための「阿波九城」を整備し、大西城もその1つとなった。城主ははじめ 牛田一長が務め、慶長三年(1598)に同じ九城の海部城主であった中村重勝が、後任として 入城した。重勝の子可近の代の寛永十五年(1638)に至り、阿波九城は廃城となった。一国 一城令に基づいた措置とされるが、同令が発布された慶長二十年(1615)から20年以上が 経過しており、また破城も城によっては徹底されなかったともいわれ、その経緯には顧問も 残る。 <手記> 大西城(池田城)は、吉野川沿いの細長い河岸丘陵を利用した城です。川と反対側は広い 袋状の台地となっていて、阿波池田の市街地が栄えています。発展性を考えるなら、一にも 二にもこちらが適地と思われますが、大西氏も長宗我部元親も、なぜ白地城を優先したのか 私には少々謎です。 最終的には蜂須賀家によって江戸時代まで保持された近世城郭ですが、遺構はほとんど 見られません。上に図示した池田幼稚園の東辺に石垣が残るのみです。東端は峰先の諏訪 神社まで城域だったと思われますが、今では大まかな構造を把握することさえ困難となって います。牛田一長の妻の墓が、池田中学校の校庭に「姫塚」として現存しているそうなので、 そこがぎりぎり城内か城外のどちらかだったものと推測されます。 幼稚園の角に石碑が建つものの、それ以上の見どころはなさそうです。この日のラストに 訪れた私は、親御さんにお迎えされて帰っていく園児たちを見送りながら後にしました。 |
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池田幼稚園角の城址碑。 | |
幼稚園東辺の石垣。 | |
幼稚園向かいの御嶽神社。 | |
幼稚園前のようす。 | |
神社境内から池田市街を望む。 |