大相模氏館(おおさがみし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 大相模能高か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR武蔵野線越谷レイクタウン駅徒歩15分


       <沿革>
           開発領主大相模氏の居館址である。大相模氏は、武蔵七党の1つ野与党の庶流とされ、
          野与基永の三男大蔵経長の曾孫能高にはじまるとされる。野与党については、桓武平氏
          平忠常流とも武蔵国造武蔵武芝の末裔ともいわれるが、確証はない。
           『日本城郭大系』では、能高を12世紀後半の人物と推定しているが、能高以降の大相模
          氏の動向については定かでない。
           『中村家系図』によれば、享保十四年(1729)に大相模氏は中村と改姓した。文政六年
          (1823)、中村家当主中村万五郎政敏が戸賀崎有道軒から神道無念流の免許皆伝を受け
          ている。現在も中村家が現存していることから、同家が大相模氏の後裔とするならば、同じ
          場所に鎌倉時代から連綿と住み続けていることになる。


       <手記>
           現在も立派な旧家として残り、その広い敷地を眺めるだけで何となく開発領主の居館の
          趣を感じることができます。遺構としては、南西隅に立つ「従是東忍領」と書かれた石碑の
          あたりが土塁跡だということです。ただ、土塁というよりは屋敷跡全体が嵩上げされている
          といった感じにみえます。西辺には暗渠となっている水路があり、おそらく堀兼用水跡だと
          思われます。
           周囲の田圃の地表面を見てみると、歩行面よりもかなり低い位置にあることが分かり、
          おそらく開拓当初の周辺は河川の流路も定まらないドロドロの湿地帯だったのではないか
          と推測されます。そのような入植の苦労を偲ぶと同時に、すぐ南に問答無用で整地された
          レイクタウンがあるのを見ると、現代の開発のパワーを改めて認識せざるを得ません。
           ちなみに、この日は越谷レイクタウンのイオンであった写真展へ知人のお供で同行した
          のですが、ダメ元で大相模氏館と宇田家屋敷への「お散歩」をお願いしたところ、あっさり
          OKをいただいてしまいました。とはいえ、宇田家屋敷跡はただの小学校ですし、大相模氏
          館跡も民家ですから、途中で機嫌を損ねてしまうのではないかと心配でした。一応、話題
          にできるくらいの遺構と雰囲気が残っていたのが幸いでした。

           
 大相模小学校遠望。
 
大相模小学校正門。 
 


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