大島屋敷(おおしま)
 別称  : 大島豊後守正時屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 大島正時か
 遺構  : なし
 交通  : 小田急線海老名駅よりバス
       「中新田小」バス停下車徒歩3分


       <沿革>
          永享十年(1438)の永享の乱に際し、安房の里見氏は配下の武将大島義金を援軍として、
         鎌倉公方足利持氏方の海老名氏のもとへ派遣した。『大島家誌』によれば、このときの縁で
         海老名一族の海老名兵衛尉広治の娘と義金の子正時が結婚した。
          この乱で持氏方は敗れ、海老名氏も壊滅したとみられている。『家誌』では、広治がその後
         も相模川対岸の日奉宗友との領地争いを続け、大島氏に救援を求めたとされる。正時の助力
         を得た広治は日奉氏を破ったものの、間もなく病死した。広治の子兵部広信は宗友との戦い
         で討ち死にしていたため、正時が遺領を継いで、中新田に居を構えたとされる。正時の館が
         それまでの広治の館を利用したものか、それとも新たに築いたものかは詳らかでない。
          戦国時代の大島氏ならびに海老名氏について詳細は不明であるが、大島氏は旧家として
         現在まで続いている。大島屋敷の西側には、徳川家康の関東入封後に建てられた高木清秀
         の屋敷があったとみられている。


       <手記>
          大島屋敷跡は道路によって南北に分断されているものの、その南半分に今も大島家の居宅
         があります。北側も同様に大島家の土地だったそうですが、近年さらにその北半がマンション
         となり、道路に面した南半は公園用地として寄付されたそうです。
          大島記念公園と名付けられた園内には、大島氏の起源と公園化の経緯について書かれた
         石碑が建てられています。とりたてて要害性は見受けられず、開拓者の屋敷以上のものでは
         なかったと思われます。

           
 大島屋敷跡(大島記念公園)。
公園内の石碑。 


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