大田和城(おおたわ)
 別称  : 大多和城、矢城山
 分類  : 平山城
 築城者: 大多和義久
 遺構  : なし
 交通  : JR横須賀線逗子駅よりバス
       「太田和」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           三浦義明の子三郎義久によって平安末期ないし鎌倉初期に築かれ、義久は大多和氏
          を称した。
           大多和氏は、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦宗家が没落した後も一定の影響力
          を保持していたようで、元弘三年(1333)の分倍河原の戦いにおいて大多和平六左衛門
          義勝なる人物が、相模の武士団を率いて新田義貞軍に参入したことが『太平記』の記述
          にみられる。同戦いでは、義勝の献策により新田軍が奇襲で大勝を得たとされる。ただ、
          大田和城がこのときまで存続していたのかは定かでない。また、三浦氏や大多和氏の
          系図に、義勝の名はみられない。大多和氏のその後についても詳らかでない。


       <手記>
           現在の地名表記は太田和ですが、城名や名字については「大田和」ないし「大多和」と
          書くのが一般的なようです。城の前を流れている川は小田和川といいます。
           大田和城は、この小田和川沿いの半独立小丘にあったとされています。丘の東半分は
          福祉介護施設となっています。残る西半分も、熱帯の森のようになっており、登る道とて
          なく、踏査は困難と思われます。一応、北西麓に標柱と、施設の入口に石碑があります。
           『日本城郭大系』には、この山の別称を「ヤジロ山」とし、「矢城山」の字を充てています。
          他方、標柱には「ヤジロー山」とあり、どちらかというと「ヤジロー」と称した人物との関連
          を指摘しているようにも見えます。
           いずれにせよ、第一義的には小田和川を遡って峠を越えた先にある、三浦氏の本拠地
          衣笠城を守るための支城であったことは間違いないでしょう

           
 大田和城址遠望。
北西麓の標柱。 
 
 施設入口の石碑。


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