太田善太夫陣屋(おおたぜんだゆう) | |
別称 : 太田善太夫吉正陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 太田善太夫吉正 | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : 小田急線本厚木駅よりバス 「坂本」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 旗本太田善太夫吉正によって、元和元年(1615)に建設された。吉正は、同年の大坂の 陣で御使番の功を認められ、相模国愛甲郡に棚沢村や半縄村などを加増された。吉正の 前歴については詳らかでないが、慶長五年(1600)の上田城の戦いにおけるいわゆる上田 七本槍の1人として太田吉正の名がみられる。この吉正は弓の名手として名を馳せていた ようだが、善太夫と同一人物であるかは定かでない。 太田氏は、元禄十年(1697)までこの地を治めたとされる。 <手記> 若宮八幡宮下に「陣屋跡」の小字が残り、ここに陣屋があったとされています。八幡宮の 鳥居脇に、説明板と当時の唯一の遺物とされる「善太夫の力石」があります。 かつては馬場や用水の跡がみられたものの、現在では遺構は何も残っていないとされて います。ただ、周辺がすっかり圃場整備されているのに対し、陣屋跡周辺だけは今も古い 畑地のままにとどめられ、一段高くなっています。畑地と神社の斜面との間は堀状になって おり、あるいはこれは用水の跡なのではないかな、と勘繰ってしまいます。 陣屋について、『日本城郭大系』では「なぜこれほどの低い地に構えられたのか」と疑問 を呈しています。私も、地図で見た限りでは、こんな雨が降るたびに浸水してしまいそうな ところになぜ…と思っていました。ただ、実際に訪れてみると、もちろん氾濫原ではあるもの の、川の水面からはいくぶん高い位置にあることが分かります。他方、陣屋後背の台地は 中津原台地と呼ばれ、かつては相模原台地などと同じく不毛の地とされていました。吉正 の拝領地が棚沢村や半縄村周辺にとどまっていたとすれば、人も住まない高台に建てる より、水害の危険性があったとしても、開発の進んだ地域に陣屋を設けたのだと考えれば、 そこまで摩訶不思議な選地ともいえないのではないかと感じました。 |
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陣屋跡現況と説明板。 | |
善太夫の力石と若宮八幡宮。 |