岡城(おか)
 別称  : 臥牛城
 分類  : 山城
 築城者: 緒方惟栄
 遺構  : 石垣
 交通  : 豊肥本線豊後竹田駅よりバス
      「高校入口」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           平安時代末期、源平合戦に際して九州の源氏方の中心人物の1人として活躍した緒方惟栄
          (惟義)によって築かれたと伝わる。元暦二年(1185)、源頼朝と敵対することになった源義経は、
          大物浦(兵庫県尼崎市)にあった惟栄の船団を頼った。惟栄は義経を岡城へ迎えようとしたと
          されるが、ほどなく暴風雨のために一行の船は難破した。義経は九州落ちを諦めて陸路奥州
          へ向かい、惟栄は捕えられて上州沼田へ流された。
           南北朝時代に、大友氏の支族志賀氏が岡城に入ったが、その経緯については2説ある。1つ
          は、元弘・建武年間(1331〜36)に志賀貞朝が南山城から移ったとするもの、もう1つは、応安
          二年(1369)以降に志賀氏房が騎牟礼城から移ったとするものである。志賀氏は、大友氏初代
          大友能直の八男能郷にはじまるとされ、貞朝は能郷の孫とされる。また、氏房は貞朝の大甥に
          あたり、志賀氏は氏房の系統の北志賀家と、貞朝の系統の南志賀家の2流に分かれたとされ
          ている。その後、岡城主は北志賀家の系統が継承しているため、今日では氏房を岡城主志賀
          氏の初代とする向きが強い。
           天正六年(1578)の耳川の戦いでの敗北以降、志賀氏の主家大友氏は急速に衰退し、家臣
          の離反が相次いだが、ときの岡城主志賀親次は大友氏への忠誠を貫いた。同十四年(1586)、
          島津氏の豊後侵攻にともない、岡城は3万5千の大軍と対峙した。攻め手のなかには、親次の
          実の祖父と父である志賀親守・親度父子や、南志賀家の志賀鑑隆・鎮隆父子も含まれていた。
          親次は、渡河を図る島津軍に地の利を生かして積極的に奇襲をかけ、また鉄砲隊を駆使して
          これを撃退し続けた。翌天正十五年(1587)に豊臣秀吉が大軍を率いて九州へやってくるまで、
          岡城は持ちこたえた。ちなみに、このとき親次は若干二十歳であったとされる。
           文禄二年(1593)、文禄の役での失態を理由に大友吉統(義統)が改易されると、親次も岡城
          を退去した。翌三年(1594)、中川秀成が7万4千石で播磨国三木城から岡城へ移封となった。
          秀成は、慶長元年(1596)から城の大改築にとりかかった。これにより、現在の本丸以西の部分
          が城域として拡張され、東側にあった大手(現在の下原門跡)は、西側に移された。城下町も、
          それまでの稲葉川対岸にあった十川・挾田から、城の西麓の現在の場所に建設し直された。
          7年の歳月をかけて、岡城は今にみる石垣の累々たる近世城郭に生まれ変わった。この間に、
          関ヶ原の戦いがあったが、秀成は西軍から東軍に寝返って所領を安堵された。
           当初、藩主邸は三の丸に置かれていたが、秀成の孫久清の代の寛文三年(1663)、本丸の
          西側の峰に西の丸御殿を築いて移った。溶岩台地に築かれた岡城は、斜面のほとんどが急崖
          となっており、名実ともに難攻不落を誇ったが、他方でその地質のゆえに地震に弱く、18世紀中
          に三層の天守や二層の月見櫓などが倒壊している。天守は、安永三年(1774)に再建された。
           岡藩は、中川家13代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           岡城は、稲葉川と大野川に挟まれた細長い山上に築かれています。城を岡城と呼ぶのに対し、
          城下町を竹田と呼ぶのは、両者が別個に存在していたためで、城内からはほとんど城下町竹田
          を望むことができません。このように城と城下町がそれぞれ別の名称をもって分かれているという
          のは、中世の山城ではよくあることでしたが、近世では非常に稀有であるといえます。岡城では
          藩主の居館も山上にあったり、家臣の屋敷群が山腹に根小屋のように散在しているなど、外観
          は近世城郭でありながら、中世の様式を色濃く残しています。
           現在、城内に建物は残っていませんが、城跡は国の史跡に指定されており、有料の公園として
          整備されています。西の丸西麓の事務所で料金を支払うと、地図とパンフレットを兼ねた巻物を
          渡されます。はじめのうちは面白い工夫だと思っていたのですが、いちいち丸まって見づらいのと、
          後で荷物にまとめる段になるとかさばって邪魔になるのとで、グッドアイデアとは言い難くなって
          しまいました(笑)。
           豊後竹田は、「荒城の月」の作者滝廉太郎の生地として知られています。岡城址は、「荒城」
          のモデルとされるだけあって、溶岩性の急崖の斜面にこれまた傾斜のきつい高石垣が連なって
          いるさまは、曲のイメージそのものです。
           岡城は大きく分けて3つの峰にまたがっていますが、志賀氏までの城は、東端の「御廟跡」と
          呼ばれる峰のみを城域としていたとされています。御廟跡の東には、かつての大手門とされる
          下原門跡があります。さらにその東にももう1つ峰があるのですが、こちらは少なくとも近世岡城
          には含まれていないようです。
           三層の天守が立っていた本丸には、現在は小さな社が1つ鎮座するのみです。その1段下の
          二の丸には、滝廉太郎の銅像があります。本丸の西の峰は、わりと広々と削平された西の丸
          で、その一画に藩主御殿跡があります。西の丸の北東隅付近にある、家老中川覚左衛門家の
          屋敷跡は、近年発掘調査が行われ、その結果に基づき間取りが床面復元されています。
           西の丸北西にある近戸門跡から城外で出ると、当時からあったのかはよく分かりませんが、
          「七曲り」と呼ばれるとても急な九十九折れの石段を下り、もとの事務所へ戻ります。
           さて、岡城は石垣の美しさで知られていますが、峻険な山上の石塁を維持するのは相当に
          大変だったのでしょう。隅石は算木積みなのにその間はすべて落し積みになっていたり、途中
          まで切り込みハギだったところから突然落し積みに変わっていたり、算木積みの隅石の外側に
          石垣が継ぎ足されていたりと、時代が下ってから積み直されたと思われる箇所が多数見受け
          られます。藩政時代の修築なのか、明治以降に補修されたものなのかは分かりませんが、もし
          後者の部分があれば、建物のない城跡で入場料を徴収しているのですから、できるだけ旧態
          に近づけるよう再改修を施していただきたいところです。

           
 大手道と大手門を望む。
大手門跡。 
 三の丸石垣。
 岡城址でもっともポピュラーな石垣。
三の丸西中仕切門跡。 
 三の丸太鼓櫓跡(右側)。
本丸の石垣。 
右端は天守台石垣。 
 本丸のようす。
天守台跡。 
 二の丸の井戸跡。
本丸の継ぎ足されている石垣。3つに折れているのではなく、 
左の隅石と真ん中の隅石の石垣は一面に続いています。 
 清水門跡。
御廟跡。 
 下原門跡。
西の丸御殿跡。 
 西の丸の石垣。
中川覚左衛門家屋敷跡。 
 西の丸から本丸を望む。
近戸門跡。 
 七曲り(左)と近戸門跡(右上)を望む。


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