岡部氏館(おかべし) | |
別称 : 岡部忠澄館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 岡部忠綱か | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR高崎線岡部駅徒歩15分 | |
<沿革> 武蔵七党の1つ猪俣党の庶流岡部氏の居館址と伝わる。岡部氏は、猪俣忠兼の子 忠綱にはじまるとされる。 忠綱の孫六弥太忠澄は、寿永三年(1184)の一ノ谷の戦いで平忠度を斬るという功 を挙げた。『平家物語』では、忠澄が忠度の箙を調べたところ、和歌をしたためた文が 結び付けられており、文武に秀でた将を討ち取ったことを大いに嘆いたという筋書きに なっており、近隣の熊谷直実の逸話と並ぶエピソードとなっている。 永享十年(1438)の永享の乱に際して、岡部景澄が足利持氏に属し、持氏とともに 自害している。戦国時代に入ると、岡部氏は北条氏に従い、岡部吉正が北条家重臣 松田康秀の配下となっている。 北条氏の滅亡後、吉正とその弟忠房・正次は徳川家康に仕え、江戸時代にはそれ ぞれ旗本となった。 岡部氏館がいつごろまで存続していたかは定かでない。 <手記> 現在の普済寺付近に「古城」の小字が残り、岡部氏館跡と比定されています。道を 挟んだ西側には、忠澄のものとされる墓があります。ただ、この地に本当に岡部氏の 居館があったかどうか、確証はないようです。 周辺は、北に福川が流れる岡部の台地の縁にあたりますが、河岸というほどの険し さはなく、とても要害地形とはいえません。平安末の開拓武士の館とみれば、むしろ 要害性よりも水利が重要といえますが、台地上には沢が流れていたような感じはあり ません。むしろ要害性と水利の双方を併せ持っているのは台地北西の、江戸時代に 中山道の間の宿があったあたりのような気がします。 『日本城郭大系』などには土塁の存在が書かれていますが、どこにあるのか分かり ませんでした。ということで、個人的にはどうも岡部氏の館跡と断ずるにはいまひとつ しっくりこず、喉につっかえて呑みこめないようなもどかしさを覚えました。 個人的には、南西500mほどのところにある源勝院館の方が、地勢的にやや可能 性が高いのではないかと考えています。 |
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普済寺。 |
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普済寺周辺から福川方面を望む。 |