岡部屋敷(おかべ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 岡部氏か | |
遺構 : 削平地 | |
交通 : 西武池袋線吾野駅徒歩25分 | |
<沿革> 武蔵七党のひとつ猪俣党の庶流岡部氏が住したと伝わる。岡部氏は、猪俣忠兼の一子 忠綱が、武蔵国榛沢郡岡部郷(現在の深谷市岡部)に入ったのがはじまりとされる。忠綱 の孫六弥太忠澄は、寿永三年(1184)の一の谷の戦いで、平忠度を討ち取った人物として 『平家物語』に謳われている。 岡部氏が吾野周辺を領したという明確な史料はなく、いつごろどのような経緯で当地に 所領を得たのかは詳らかでない。吾野駅前の法光寺の「木造地蔵菩薩坐像」の胎内には、 「至徳三年丙寅五月十二日開眼畢大檀那岡部新左衛門入道妙高」とあり、至徳年間(13 84〜86)には、岡部新左衛門なる人物が吾野にいたことが分かる。 吾野の岡部氏が、深谷の岡部氏本家と同一なのかそれとも分家なのかは不明である。 岡部氏本家は、戦国時代には北条氏の重臣松田康秀の配下となり、天正十八年(1590) の小田原の役で禄を失った。岡部屋敷についても、遅くともこのときまでに廃されたものと 推測される。 <手記> 岡部屋敷は、標高354mの通称「りゅうがい山」の北側に延びる尾根の中途に位置して います。屋敷跡の北東麓の旧坂石小学校跡地のあたりは、字中屋敷と呼ばれています。 旧吾野宿の一画に鎮座する白鬚神社前から線路をくぐり、小学校跡と線路の間の畑地を 抜けると、尾根先から登る作業道があります。駅側からはそれといった道はないようで、 『城跡ほっつき歩記』さまから事前に情報を得ていなければ、道なき斜面を直登することに なっていたものと思われますm(_ _)m しばらく登ると、眼前にかなりの広さの削平地が現れます。ここが、伝岡部屋敷跡です。 削り残されたような小岩の上に小さな祠があるほかは、説明や碑などはありません。背後 の斜面は切岸状になっており、その上には尾根先が櫓台状に張り出しています。削平地 の付け根には、両サイドにわずかに竪堀状に切り込まれたような部分が見受けられます。 これが遺構なのかは判断しがたいところですが、堀跡とすれば同屋敷跡で唯一の堀遺構 ということになると思われます。 屋敷跡の西側斜面は、非常に緩やかな谷地形となっています。その向こうには、もう1つ 尾根があり、埼玉県の調査などではその先端部も出丸のような曲輪跡とみているようです。 ただ、はっきりとした削平は認められず、そもそもそのすぐ先が西武鉄道の線路にともなう 法面になっているので、当時の地形のままなのかすら不明です。屋敷跡の北側1段下にも 腰曲輪状の平場がありますが、こちらも同じく当時のものかは分かりません。 岡部屋敷は、屋敷とはいうものの、立地は完全に山城です。屋敷と呼べるだけの広さは ありますが、ここに平時から住むというのは、あまり現実的とは思えません。麓の中屋敷 が、すでに高台の上に位置しているので、眺望という点を重視したとしても、こちらで十分と いえます。他方で、尾根をさらに上った頂上のりゅうがい山の方が詰城としてはふさわしく、 岡部屋敷は何とも中途半端なポジションと遺構をもつ城館跡といえます。あるいは、平安 時代末から室町時代初期のかけては、ある程度の高さにある程度の平場があれば、詰城 としては十分で、後に山頂のりゅうがい山にも要害を設けたということなのかもしれません。 余談ですが、最後にこの城を訪れるにあたって、ちょっとほっこりした話を。山間の宿場町 とて車を止める場所がなく、白鬚神社の東方にあった手焼きせんべいのお店で、おやつを 求めつつ駐車場について訪ねてみると、小学校跡は広いスペースなので止めても良いの ではとのこと。とりあえず神社脇に一旦止めて現場を見に歩いていくと、先のお店の若い 売り子のお姉さんが、自転車で息を切らしてやって来て、「観光客向けに駐車スペースを 開放しているところがある」とのこと。わざわざ私のために誰かに訊いて、自転車に乗って まで追いかけてきて下さったことにありがたいやら申し訳ないやら、とにかく感激してしまい ました。ちなみに、そのスペースは、対岸の国道沿いの小学校とストーブ屋さんの間にあり ます。 |
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岡部屋敷遠望。 手前の山(りゅうがい山)の右下法面裏手あたり。 |
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字中屋敷(旧坂石小学校跡)現況。 |
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字中屋敷の一段下の畑地。 ここを左手に入ると、登山路があります。 |
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屋敷跡削平地のようす。 | |
削平地付け根の竪堀状の切れ込み地形。 | |
同上。 | |
削平地背後の切岸状地形。 | |
屋敷跡削平地北側1段下の腰曲輪状地形。 | |
屋敷跡削平地の西側尾根先。 曲輪(出丸)跡か。 |
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屋敷跡周辺から麓の旧吾野宿方面を望む。 |