りゅうがい山 | |
別称 : りゅうがい城、りゅうがい山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 岡部忠澄か | |
遺構 : 堀、削平地、虎口跡 | |
交通 : 西武池袋線吾野駅徒歩40分 | |
<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』南村の項に、「りうがい山 村の南にあり 土人岡部六弥太忠澄 が城跡なりと云(中略)堀石垣等の形僅存せり 是より東の方谷を阻て 物見山と云える所 あり 北の方へ下る事五六町ばかりの所に愛宕社の小祠あり 其下に四五百歩の平地あり 是を中屋敷と云」とある。 岡部氏は武蔵七党のひとつ猪俣党の庶流で、猪俣忠兼の子忠綱に始まる。忠澄は忠綱 の孫で、寿永三年(1184)の一の谷の戦いで、平忠度を討ち取った人物として『平家物語』 に謳われている。りゅうがい山の北側の尾根中腹には、岡部屋敷と呼ばれる広い削平地が ある。岡部氏について詳細は、岡部屋敷の項を参照されたい。 現在、岡部屋敷跡には『記稿』の記述にある愛宕社と思しき小祠があり、りゅうがい山の 東には、平野砦と呼ばれる遺構が存在し、物見山に比定することは可能と思われる。また、 岡部屋敷の北東麓には、字中屋敷と呼ばれる平坦地(小学校跡地)もみられる。ただし、 りゅうがい山は現在の南地区の北東、坂石町分地区に属している。したがって、「村の南」 とする『記稿』の記述と、唯一合致しない。この点『城跡ほっつき歩き』によれば、りゅうがい 山周辺の字元組は、かつては南村の飛び地であったとされる。よって、南村のりゅうがい山 が当城である可能性は、充分に考えられるものと思われる。 <手記> 秩父地方には、多くの「りゅうがい山」が存在しています。漢字で書くと「龍崖山」となる そうで、その多くは城跡の伝承をもっています。すなわち、「りゅうがい山」とは「要害山」の ような、城館跡を示すこの地方特有の呼称なのでしょう。 吾野駅背後にせり出すりゅうがい山へ登るには、まず岡部屋敷を目指します。屋敷裏手 の緩やかな尾根道をしばらく進むと、眼前に急崖が現れます。ここまで何となく続いていた 林業用の作業道も途切れ、山頂を目の前にしてラストは直登になります。ただ、それまでの 杉林ではなくなるものの、見通しはそこまで悪くはないので、気を付けて時間さえかければ、 さほど危険はなく頂上にたどり着けます。 頂上の主郭は、広いとまではいえないものの、削平はなされています。中心付近に岩肌 が露出している部分があり、この露岩の上に、鎮守でも置かれていたのではないかと推測 されます。 ここだけでは、史料上からは確認できないこの山を城跡と断ずるには不足と思いますが、 決定的な遺構である2条の堀が、主郭背後の尾根筋に存在します。主郭側の堀は、堀切に はなっておらず、南側片面のみの竪堀です。北側には岩塊が露出しており、入城者は堀を 脇目に連続カーブしてこの岩の上に出ます。おそらく、竪堀と喰い違いを利用した虎口だと 思われます。 2条目の堀は、わりと規模の大きい堀切で、当時のものかは不明ながら土橋が付属して います。この堀切の城内側には、またしても巨岩が露出しており、横矢の代わりの役割を 果たしていたものと推測されます。この城が、『記稿』にいう南村のりうがい山であるならば、 記述にある「石垣」とは、この2条の堀に付随する露岩を指すものなのでしょう。 このように、りゅうがい山は、2条の堀の存在によって城跡であることが確実といえます。 曲輪形成という面からみれば、あくまで小規模なほぼ単郭の城です。ですが、先述の通り 喰い違い虎口と思しき縄張りをもっていることから、それなりに手間のかけられた城である こともわかります。少なくとも、平安末期の岡部忠澄の詰城で終わるものではないことは、 明らかです。 |
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りゅうがい山遠望(背後の三角の山)。 手前の丘の中腹が岡部屋敷。 |
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山頂(主郭)のようす。 |
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1条目の堀(竪堀)。 | |
竪堀の反対側。 手前から左奥へ入り右手上へ登ります。 喰い違い虎口か。 |
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2条目の堀切。 | |
堀切を城外側から。 |