多門氏館(おかどし)
 別称  : 多門館、鶴馬館
 分類  : 平城
 築城者: 多門氏か
 遺構  : 土塁
 交通  : 東武東上線鶴瀬駅徒歩20分


       <沿革>
           旗本多門氏の陣屋と伝わる。多門氏は、『寛政重修諸家譜』によれば嵯峨源氏流と
          され、三河国額田郡大門に住していたことから大門氏を称し、後に多門氏に改めたと
          される。徳川家康の関東入封にしたがった多門成正が、この地を与えられた。
           旗本多門氏3代目とされる多門重共は、元禄十四年(1701)の浅野内匠頭長矩の
          取調べと検死にあたった役人として知られる。宝永元年(1704)、重共は武蔵国多摩
          郡へ所領替えとなった。これにより、鶴馬村の陣屋は廃されたものとみられる。


       <手記>
           多門氏館は、新河岸川と江川の合流点に臨むわずかな沖積地の角を利用して築か
          れています。おそらく当時は、眼前に沼や田が広がっていたのでしょう。
           市のHPや関連サイトをのぞくと、立派な土塁と堀の残る雑木林のように書かれている
          のですが、その後開発されたのか、現地は新興住宅地となっています。新興住宅街の
          西辺、昔からの住宅地との境目に土塁らしきものの痕跡は認められます。ただ、堀に
          ついては見つけることはできませんでした。
           多門氏館跡からは、発掘調査により多門氏以前と推定される遺物が見つかっており、
          後北条氏時代ないしそれ以前に、城館が存在していたものと考えられています。南西
          すぐのところには鶴馬城があり、位置的に居館・詰城の関係にあったものとも推測され
          ます。『小田原衆所領役帳』には「上田左近 百七拾貫文 入東鶴間村」とあり、後北条
          時代には上田氏が、それ以前には難波田氏が領有していたものと思われますが、館
          がいつごろ誰によって築かれたのかは不明です。

           
 西辺の土塁跡と思われる土盛り。
 
同上。 
 


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