堀田城(ほった)
 別称  : 中尾城、追手城
 分類  : 山城
 築城者: 堀田正重
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : 中央自動車道松川ICから車で30分


       <沿革>
           大河原城主香坂高宗を頼った宗良親王の家臣・堀田正重が居城としたと伝わる。南朝に
          属した堀田氏としては、貞和四/正平三年(1348)の四條畷の戦いで楠木正行らとともに
          討ち死にした堀田正泰がいるが、正重と関連があるのかは定かでない。
           応安二/正平二十四(1369)に関東管領兼信濃守護の上杉朝房が大河原へ攻め寄せた
          際には、堀田城も戦場となったと推測されるが、詳細な戦況は明らかでない。正重や堀田城
          のその後についても不明である。


       <手記>
           大河原への北からの玄関口に位置することから、追手城の別称があるそうです。麓からの
          比高は200mほどありますが、当時の秋葉街道はすぐ背後の鞍部を通っていました。主郭跡
          には中尾神明社が建ち、脇に説明板が設置されています。境内の西辺には土塁状地形が
          見られますが、直感的には神社造成に伴う後世の削り残りなどのように思われます。
           尾根先の境内西側は更地となっていて、二の郭跡と拝察されます。先端側斜面は切岸状
          に成形されているように見え、また北西尾根には一騎駆け状の土塁線が延びていました。
          おそらく、北西尾根を登ってくる間道があったものとみられ、南北朝時代の防御設備である
          一騎駆けが残っているとしても、不思議ではないでしょう。
           『日本城郭大系』には3つの郭が連続するとありますが、更地の西側には曲輪らしき造作は
          これ以上見受けられませんでした。境内の東側は櫓台状の頂部削平地となっており、これを
          詰曲輪とみるなら、3つの曲輪から成っていたことになります。
           背後の鞍部には堀切が設けられていたと推測されますが、切通し道が通っていて確認は
          不可能です。ちなみに、堀田城や北東の大島城、南西の青木城の背後鞍部は、一直線の
          中央構造線上に並んでいるそうです。

           
 堀田城跡遠望(中央上部右側の頂部)
 画面中央は松平城跡
堀田城跡近望。 
 主郭跡の神明社。
神明社境内の説明板。 
 境内西辺の土塁状地形。
 後世の造成か。
境内西側の更地。二の郭か。 
 同上。
更地先端側斜面の切岸状地形。 
 北西尾根の一騎駆け状地形。
同上。 
 境内東側の頂部削平地。
 詰曲輪跡か。
同上。 
 背後鞍部の切通し道。
 堀切跡か。


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