長船城(おさふね)
 別称  : 伝兼光屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 備前長船兼光
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR赤穂線香登駅徒歩25分


       <沿革>
           名工備前長船兼光が、足利尊氏から屋敷地を賜ったのがはじまりとされる。一町(約100m)四方の
          濠を巡らし、四隅に櫓を設け、代々刀工が居住して刀を打っていたといわれる。
           文明十五年(1483)、金川城主松田元成が赤松氏から離反して赤松方の福岡城を攻めた際(福岡
          合戦)、長船城や周辺の民家も焼き払われたとされる(『備前軍記』)。その後の長船城や刀工集団
          長船派の動静については定かでない。また、16世紀後半には小笠原氏の一族とされる長船貞親が
          宇喜多直家に仕え宇喜多三老の1人に数えられているが、この長船氏と長船城との関連についても
          不明である。


       <手記>
           備前長船刀剣博物館のすぐ南東にこんもりとした丘があり、これが長船城の土塁跡とされています。
          その手前から、およそ上の図の形に堀跡とみられる低まった田が延びていて、グーグルの航空写真
          でも北半分くらいの外郭のラインが推定できます。
           郭内は字を城の内築地(つんじ)といい、付近の田畑からは鍛鉄で生じる、いわゆるカナクソが多く
          出土しているそうです。おそらく、城内には長船派の刀工が集住し、刀の大量生産を行っていたもの
          と推測されます。また、城の北西隅とみられる箇所にも、土塁跡のような土盛りがみられます。
           先述の田のラインをたどる限り、城のつくりは単純で、福岡合戦の後も細々と作刀を続けていたか、
          そのまま放棄されたかのどちらかでしょう。少なくとも、長船貞親がここを取り立てて居館としたような
          感じには見えませんでした。

           
 北西隅付近の堀跡とみられる田。
 中央奥の土盛りも土塁跡か。
土塁跡を望む。 
 土塁跡手前の説明板。
土塁上のようす。 
 東辺の堀跡とみられる田。
同上。 


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