刑部城(おさかべ)
 別称  : 阿黄山紫城、阿王山紫城
 分類  : 平山城
 築城者: 今川氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、井戸跡
 交通  : 天竜浜名湖鉄道気賀駅徒歩15分


       <沿革>
           今川氏によって築かれたとみられているが、詳しい築城の経緯は不明である。永禄十一年
          (1568)に徳川家康が遠江へ侵攻すると、今川家臣の庵原忠良・長谷川秀匡らが守ったが、
          徳川家臣・菅沼定盈に攻め落とされた。このとき、城主の娘が辱めを受けることを嫌い、近く
          の池に入水して金襴の蛇に姿を変えたとする伝説がある。
           元亀三年(1573)十二月二十二日の三方ヶ原の戦いにて家康が武田信玄に大敗すると、
          まもなく刑部城も武田氏の手に落ちたとみられる。その後、堀江城攻めに手こずった信玄は
          刑部で越年し、三河へと転進した。
           以降の刑部城の動静は不明である。


       <手記>
           都田川に沿って突き出た峰先の城です。現在は付け根を県道が横断し、半独立丘のように
          なっていますが、当時は南側の丘陵から真っすぐ尾根が延びていて、本坂道も城山の東側を
          迂回していたそうです。先端に金山神社が鎮座し、その南麓の参道口に駐車スペースがあり
          ます。参道脇は館跡とされ、足元に見過ごしてしまいそうにささやかな標識が建っています。
           金山神社境内は出丸とみられ、城山との間が堀切となっています。城山は荒れ気味の竹藪
          で、先人のサイト等では踏査不可のように書かれていましたが、分け入ってみれば踏み分け
          程度の道筋もあり、8月の盛夏でしたが主郭最後尾の土塁まで普通に行き着けました。郭内
          には井戸跡とみられる大穴も見られ、また登りはじめには腰曲輪や主郭虎口といった遺構も
          認められます。
           藪はさほど苦になりませんでしたが、たいへん困ったのが藪蚊です。どうも竹藪が鵜か鷺の
          塒となっているらしく、頭上に低く汚い鳴き声が行き交っていました。そのため、普段から血は
          吸い放題なのでしょう。とんでもない数の藪蚊がたかってきます。素敵な遺構を拝んだ後とて
          テンションが上がり、「かかって来いやぁぁ!!」と2〜30匹たたき落としましたが、焼け石に水
          でした^^;

           
 金山神社。出丸跡か。
神社と城山の間の堀切。 
 腰曲輪。
主郭虎口。 
 同上。
主郭のようす。 
 井戸跡か。
主郭最後尾の土塁。 
 同上。
金山神社参道脇の館跡とされる区画。 
 館跡の標識。


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