忍三郎館(おしさぶろう) | |
別称 : 忍氏館、鴛氏館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 忍三郎か | |
遺構 : なし | |
交通 : 秩父鉄道行田市駅またはJR高崎線吹上駅 からバスに乗り、「城南」下車徒歩1分 |
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<沿革> 『吾妻鏡』の建久元年(1190)十一月七日の条に、上洛した源頼朝の随兵として、 忍三郎と同五郎の名が見える。忍氏は武蔵七党の1つ児玉党の庶流ともいわれる が、確証はなく出自は定かでない。 15世紀に入り、忍氏は隣領の成田氏に突如として攻め滅ぼされた。従来は延徳 元年(1489)に成田親泰によるものとされてきたが、近年成田氏の事蹟は大幅に 繰り上がるとする説が呈されている。忍氏滅亡の時期は、成田氏が忍城を築いた 年代とも関連して前後する可能性があり、また当事者についても親泰の父顕泰や、 さらにその父(養父)とされる成田正等の名が取りざたされている。いずれにせよ、 忍氏の滅亡と忍城の建造により、館は廃されたものと思われる。 <手記> 『日本城郭大系』や『中世城館調査報告書集成』では「忍三郎館」としていますが、 忍氏が戦国時代まで同じ場所で続いたとすれば、名称は忍氏館とするのが正確と 思われます。また、「忍」の代わりに「鴛」の字が使われることもあるようです。 近世忍城南東の、遍照院および大蔵寺付近が館跡と推定されています。遺構は もちろん、説明板などもありません。すぐ北にある水城公園から忍城本丸周辺まで は、かつては広大な沼地だったようで、館はおそらく水辺に臨む微高地にあったと 拝察されます。両寺院の東脇を流れる細い水路は、当時の水と陸の境目だったの かもしれません。 |
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東側の水路越しに遍照院を望む。 | |
遍照院本堂。 |