乙子城(おとご)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 浦上宗景か
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : JR赤穂線西大寺駅からバスに乗り、
      「神崎口」下車徒歩15分


       <沿革>
           砥石城主宇喜多興家の子八郎は、幼くして祖父と父を相次いで失い、笠加村の尼寺に預けられた
          と伝わる。成長した八郎は、母の尽力で備前守護代浦上氏に仕官し、天文十二年(1543)に宇喜多
          直家と名乗って乙子城と300貫の知行、そして足軽30人を与えられた。乙子城はこのとき浦上宗景に
          よって築かれたとも伝わるが、元服したての若輩に新造の城を任せるものか疑問が残る。そもそも、
          天文十二年時点の宗景はまだ兄の浦上政宗とたもとを別ってはいないため、宗景に乙子城を築いて
          直家に与えるだけの裁量が許されていたのかは疑わしい。また、興家やその父能家が城主であった
          とする説もあり、興家の死の過程や直家元服までの経緯には不明な点が多い。
           直家は、大叔父にあたる浮田(宇喜多)大和守国定が城主となっていた砥石城を主命で攻め落とし、
          その功により新庄山城主に任じられた。弘治二年(1556)ごろのこととされるが、年代には諸説ある。
          乙子城には、弟の忠家が置かれたとされる。
           永禄十一年(1568)、忠家は富山城主に転じたが、その後の乙子城については不明である。


       <手記>
           吉井川河口に望む海抜47.7mの小山が乙子城跡です。東から延びる丘陵の先端に位置し、当時は
          西および南はすでに海でした。また、東麓の千町川は後世の開削のようで、東側とは地続きであった
          とみられます。
           北西麓から階段が付いており、付近には「宇喜多直家 国とりはじまりの地」と彫られた立派な石碑
          が建てられています。地図で見るよりも高く急に感じる山で、途中に大国主神社という小社があるの
          ですが、城と関連があるのかは不明です。
           山頂の本丸から、東に3段ほど平場が続いていて、2段目まではほぼ間違いなく城の腰曲輪とみら
          れます。3段目より下は墓地となっており、どこまでが旧地形なのか定かでありません。一応、墓地の
          裏手にもそれらしい谷筋の平場が見られます。

           
 北から乙子城跡を望む。
「宇喜多直家 国とりはじまりの地」碑と乙子山。 
 大国主神社。
本丸のようす。 
 本丸からの眺望。
本丸東下1段目の腰曲輪。 
 2段目の腰曲輪。
腰曲輪背後の切岸。 
 3段目の平場。
 これより下は遺構かどうか不明です。
本丸東方の墓地。 
 墓地裏手の谷筋を埋めた平場。
同平場から谷筋を見下ろす。 


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