砥石城(といし) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宇喜多氏か | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁 | |
交通 : JR赤穂線大富駅からバスに乗り、 「畠山製菓入口」下車徒歩15分 |
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<沿革> 後に戦国大名となる宇喜多氏の初期の居城である。宇喜多氏は百済王族を祖とする備前豪族 三宅氏の後裔を自称しているが、信憑性は低いとされている。出自には諸説あり判然としないが、 15世紀後半には邑久郡代島村氏の指揮下の国人として一定の勢力を保持していた。 『備前軍記』によれば、砥石城は宇喜多能家によって大永年間(1521〜28)に築かれたとされる が、同書は今日では史料的価値が低いとされている。能家は備前守護代浦上氏に仕えて頭角を 現し、浦上村宗が主君の備前守護赤松義村と不和になり永正十六年(1519)に居城の三石城を 攻められた際には、動揺する城兵を督戦して勝利に導いた。 巷説では、能家は天文三年(1534)に隣の高取山城主島村豊後守盛貫(盛實)に砥石城を急襲 され、攻め滅ぼされたとされる。能家の子興家は、幼い自身の子八郎を連れて逃れたが、同五年 (1536)に病没ないし重圧に負けて自害した。砥石城と宇喜多氏の家督は、能家の弟である浮田 大和守国定が盛貫と結託して手中に収めたとされる。 ただし近年では、同時代史料の精査から、能家の子が島村観阿弥(盛貫)ないし元服前の島村 一族の某かに殺害されたとみられている。能家の最期については定かでなく、また能家の子の諱 も興家であるかどうか定かでない。遺された八郎が幼児だったため、国定が砥石城主と宇喜多氏 の家督を継いだものと推測されている。 成長した八郎は浦上氏に出仕し、直家と名乗って乙子城を与えられた。天文二十年(1551)に、 浦上政宗・宗景兄弟が反目すると、直家は宗景を支持し、国定は政宗に属したと推測されている。 弘治二年(1556)ごろ、直家は砥石城に国定を攻め滅ぼした。従前の巷説では、祖父の仇討ち を志したもので、時期も天文十六〜十八年(1547〜49)ごろのこととされてきたが、近年は宗景の 命による政宗派の討滅とする説が有力である。この功により、直家は宗景から新庄山城主に任じ られた。 砥石城には、直家の弟春家が入ったとされる。しかし、春家はこのとき乙子城を引き継いだもう 1人の弟とされる忠家と同一人物ともいわれている。春家は天正元年(1573)に亀山城主となった とされるが、この間砥石城の名は史料に見られず、扱いは不明である。 <手記> 砥石城は千町川の南に横たわる山塊の一支峰に築かれており、東谷を挟んだ西側には島村氏 の高取山城があります。登山道は先端下と南東麓の2か所から付いていて、どちらかから登って もう一方から下りるのがよいでしょう。南東麓には宇喜多直家生誕之地碑があり、その脇に小さな 車なら1台止められるスペースがあるので、私はこちらから登りました。下の写真は、便宜上逆順 で載せています。 山頂の主郭跡に縄張り図付きの説明板があり、それによると主郭の前方の3郭、後方に1郭が あるそうです。ただ、前方は藪に埋もれて2郭まで確認できたものの、後方はほとんど自然地形で よく分かりませんでした。堀切すらなく、防御力にはかなり疑問です。緩やかな先端側尾根筋には 3か所ほど曲輪と書かれた標柱が建っていますが、実際に曲輪跡かどうかはなんともいえません。 また、主郭の脇には低い石塁があり、現地では野面積み石垣としていますが、これも城の遺構か どうか留保が必要なように感じます。 ひとつ隣の峰には出丸があったとされ、行ってはいませんが、現地説明板を見るとそちらの方が 守りに堅そうにも見えます。相互補完的な関係にあったとは思いますが、いずれにしてもそれほど 規模の大きな城ではありません。直感的には、直家が国定を攻め滅ぼしてそのまま廃城となった のではないかと考えています。 |
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砥石城跡を望む(中央右側が主郭)。 | |
先端下の登山口。 | |
尾根筋の曲輪と標識の建つ箇所。 実際に遺構かは不明です。 |
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同上。 | |
同上。 | |
主郭先端側の腰曲輪。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
主郭からの眺望。 | |
主郭の説明板。 | |
主郭脇の石塁。 これも遺構かは不明です。 |
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主郭全景。 | |
主郭から出丸を望む。 | |
主郭背後の尾根筋。 | |
南東麓登山口の宇喜多直家生誕之地碑。 |